感想:映画『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』 鍵が開いたもの


【製作:アメリカ合衆国 2011年公開(日本公開:2012年)】


舞台はニューヨーク。宝石商を営むトーマスと、その妻で自らも仕事を持つリンダには、アスペルガー症候群を抱え、物事への探究心が強いオスカーという息子がいた。
トーマスはオスカーのこだわりの強さを長所として捉え、様々な調査をミッションとして彼に与え、ともに探求する育て方をしていた。あるとき、トーマスはオスカーに「ニューヨークには幻の第6区があった」と語り、その根拠を探す調査が始まっていた。
しかし、トーマスは2001年9月11日にワールドトレードセンターにいたことで、アメリカ同時多発テロに巻き込まれて命を落とす。
彼の死から1年後、父の痕跡が自分の中から失われていくことを恐れたオスカーは、トーマスのクローゼットを探索する中で、青い花瓶の中に入った封筒を発見する。「Black」と書かれたこの封筒には鍵が入っていた。
鍵を開けた先に、父が残した何かがあるのではーー?
そう感じたオスカーは、ニューヨーク5区じゅうの「Black」という苗字の家を訪ね、鍵穴を探し始める。
オスカーが、ニューヨークでの探求を通じて父の喪失を周囲と分かち合い、受容するきっかけを掴むまでの物語。

本作は大切な人やものの喪失を身近な人物が受け入れ、再起していくまでを図式化したグリーフの観点から描かれた作品だといえる。
テロから1年を経た段階で、オスカーは「パニック」「否認」「罪責感」といったプロセスを行き来しており、このプロセスをどのように「受容」や「新しい希望」といった段階へ進めるかが本作での課題であるといえる。
コミュニケーションやイニシエーションの理解を得意としないオスカーのアスペルガー症候群は、グリーフケアを描く上で重要な役割を果たす(死者を死者として認識し、別世界へと送り出す儀式である葬儀はグリーフケアの重要なプロセスだが、オスカーは遺体が存在しないこともあり、葬儀に意味を見出せない)

オスカーは、ワールドトレードセンターの上層階で死を悟ったトーマスが自宅にかけてきた電話に出られなかったことへのトラウマを抱えている(リンダは自らの職場でトーマスと最期の会話を交わしている)。
トーマスの遺体が見つからなかったこともあり、テロから1年後の時点で、オスカーは父の死を事実として理解はしているものの、心理的に受け入れることができておらず、むしろ拒んでいるきらいがある。これは、「たとえ太陽が爆発しても地球との距離から8分間は人間は爆発を知らず、太陽の光に照らされ続けている。その8分間を延長したい」というオスカーのモノローグからも示唆される。

オスカーは、トーマスの痕跡を探し求めて「鍵」を首から下げ、一心不乱に「ブラック」氏宅を訪問し、彼らの人となりを知り、写真を撮り、記録していく。この探求は、オスカーが自分自身のルーツや自分の抱える痛みと徹底して向き合うものだ。
彼は元来のアスペルガー症候群の性質に加え、テロの被害者遺族であることも相まって多くの苦手なシチュエーションを持つ。オスカーは自分なりに自らの性質を把握し、タンバリンを鳴らして恐怖を逸らすといった手法をとりながら探求を続けるが、公共交通機関を利用できない、橋を渡ることができないという2点についてはひとりでは克服できない。

ここで登場するのが、テロ後にオスカーの父方の祖母の家に現れた「間借り人」である。発話せず、筆談で他者とコミュニケーションをとる彼にその理由を問うオスカーは、「間借り人」に「自分について語って初めて他人について聞くことができる」と伝えられ、尊敬していた父・トーマスをテロで失い、父の残した鍵によって開けられる鍵穴を探しているという探求の顛末を語る。それに対し、「間借り人」は、自分は子どもの頃の空襲(ドレスデン爆撃)によって同じ防空壕に避難していた両親を失い、それによるトラウマで話すことをやめた(できなくなった)と語る。
それまでの「ブラック」氏探訪では、鍵の存在が主に問われ、彼らの持つ背景は後景化される傾向にあったが、ここで人と人が互いの経験を分かち合うことの重要性が示される。
その後、オスカーは「間借り人」を伴って探求を行うようになり、公共交通機関と橋を克服することになる。
探求のパートナーであるこの「間借り人」は、実は「親になるのが怖い」という理由でトーマスのもとを去った彼の父親、すなわちオスカーの祖父である。細かな仕草や、筆談に用いるメモを使った誘導の仕掛けなどはトーマスやオスカーに受け継がれている部分もあるとされる。
「親になるのが怖い」という理由は「間借り人」が幼少期に両親を失った経験も影響していると考えられ、人が一度負ったトラウマがその後の人生に色濃く影響することも示唆される。
「間借り人」はオスカーの成長に大きく寄与するものの、テロに見舞われたトーマスが残した6回にわたる留守番電話のメッセージを聞くことに耐えられず、彼の前から姿を消し、鍵の探求に最後まで伴走する訳ではない。
しかし、話さない彼との親密な時間を通して、言葉を交わさないコミュニケーションが可能であることを知ったことは、オスカーにとって、トーマスと最期に「話せなかった」トラウマと向き合い、その苦しみを和らげる役割を果たしていると考える。

最終的にオスカーは「black」の鍵穴にたどり着く。もともとこの鍵は、トーマスが遺品整理のバザーで購入した花瓶の中に入っていたものだった。花瓶の持ち主であるウィリアム・ブラックは、疎遠だった自らの父が自分宛に貸金庫を遺していることを知らずにバザーを行ったことから、遺品の中にあったと思われる金庫の鍵を探し続けていた。すなわち、オスカーが持つ鍵は、その金庫を開ける鍵だったのである。

鍵こそが自分と父親を結ぶのだと信じていたオスカーは、鍵穴が自分たちとは無関係だったことに落胆する。
しかし、この探求は決して意味のないものではなかった。
物語の終盤で、オスカーの母であるリンダが、息子の「ブラック」氏探求に気づいており、彼が訪ねた家に連絡をとったり、先回りして訪問し、事情を説明していたことが明らかになる。オスカーが探求に使ったギミックを眺めながらふたりが会話するシーンでは、彼らが訪ねた「ブラック」氏がどんな人達だったか、どんな経験を持っていたかが語られる。
その中にはオスカーらと同じように、テロによって大切な人を失った人々も少なからず存在した。
アスペルガー症候群の特性故にがむしゃらに鍵穴を求めることが強調された探求だったが、知らず知らずのうちにオスカーは自分と似た境遇を持つ人、あるいはまったく違う特性を持つ人と邂逅し、自らを開示することで、喪失の経験を分かち合い、受容する糸口を掴んでいたのである。

また、やや距離のあったリンダとトーマスの思い出を分かち合うことは、オスカーにとって何より喪失の受容の助けになった。
彼は自らが訪ねた「ブラック」氏全員に手紙を書き、トーマスが亡くなる前に自らに問いかけていた「ニューヨークに第6区が存在した証拠を突き止めよう」という探求を再開する。
探求の結果、トーマスと訪ねた際にはうまくこげなかった湖のほとりのブランコの座面の裏側に、彼からのメッセージが貼り付けられているのを発見する。
トーマスのメッセージを受け取ったオスカーがこのブランコを勢いよくこぎ、トーマスとともに探求していたより成長していることが示唆され、本作は幕を閉じる。これは、オスカーが「新しい希望」「立ち直り」の段階に入ったことを示しているといえるだろう。

「ブラック」という苗字からアフリカ系の登場人物が多数登場し、ニューヨーク各地で撮影が行われるなど、同時多発テロから10年の節目に、犠牲者や被害者、その関係者への配慮とニューヨークという街への敬愛をもって作られた作品だと感じた。ただし、このテーマを本当に真摯に描くのであればムスリムの登場人物が必要不可欠なので、現実のニューヨークには多くいるであろう彼らの存在をオミットしたことは残念に思う。

映像や演技の面では、他者の目や気になったものをまじまじと見つめるオスカーの癖が印象的だった。

また、本作は、「鍵」という男根的なモチーフ、祖父ー父ー息子という3代の男性をめぐる物語に、コミュニケーションを得意としないオスカーの性質が相まって、終盤までは非常にマスキュリンな物語にみえる。
このある種父性主義的な構図が、「鍵穴は存在したが、そこに父はいなかった」という事実と、母であるリンダがオスカーの探求の経験を共有していたという展開によって脱臼し、探求の中で後景化していた人と人との繋がり、それによる喪失の受容というテーマが浮き彫りになる。
この構図は興味深いと感じたのだが、同時に「母は強い」といった父性主義目線からの母性の賛美のようにもみえた。(「間借り人」とそのパートナーであるオスカーの祖母との関係からもこの点は窺える)
家族を描いた映画における母親の位置付けについては今後も考えていきたい。


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