感想:映画『スウィング・キッズ』掌の上で、それでも踊る

【製作:韓国 2018年公開(日本公開:2020年)】

朝鮮戦争下、米国が管理する巨済捕虜収容所。
捕虜への人道的な待遇を強調したい所長は、かつてブロードウェイのダンサーだったアフリカ系の兵士・ジャクソンに、捕虜や現地人を起用したダンスチームの結成を命じる。
メンバーとして選ばれたのは、誤って収容された民間人ジョンサム、独創的な振り付けで踊るが身体の弱い中国人シャオパン、収容所に出入りする現地女性で4ヶ国語を理解するパンネ、そして朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の兵士として活躍し、「英雄」と称されるギジンの弟ギスの4名。
当初メンバーの踊りはぎこちなく、また舞踊スキルの高いギスは北朝鮮の勇士という立場上の軋轢があり、チームの船出は難航するが、彼らは次第にダンスを通じてコミュニケーションをとり、パフォーマンスに対して前向きになっていく。
しかし、収容所内では北朝鮮の兵士による粛清や米軍関係者暗殺計画の動きが活発化し、ギスは否応なくその波に巻き込まれる。様々な人間の思惑が入り混じる中、ダンスチームはクリスマス公演を迎えるが……。

本作は、捕虜収容所を舞台に、国籍やイデオロギーの異なる人々がダンスを通じて交流する様子を描く。人間を惹きつけ、連帯させるダンスや音楽の普遍的な力と、それ故に文化は体制に利用されること、権力や同調圧力がミクロな繋がりを容易く破壊しうることを一挙に描いており、娯楽性と歴史・社会に対する批判的な目線が両立した作品だった。

本作の前提となるのは、日本による併合から第二次世界大戦後の分割占領、そして朝鮮戦争と、朝鮮が他者から支配され、引き裂かれ続けてきたということである。

米国の収容所のイメージ戦略を目的として、米国の舞踊であるタップダンスを、アジア人の捕虜に踊らせるという経緯からわかる通り、ダンスチームは米国によって他律的に結成されたものだ。
ギスのコサックダンスやジョンサムの伝統舞踊といった米国以外の文化のダンスはチームとしてのパフォーマンスではオミットされる。また、タップダンスそのものが本来はアフリカ系の人々の文化であり、ミンストレルショーなどで白人パフォーマーに利用されてきた舞踊であることを踏まえると、このダンスチームは権力による文化の利用が幾重にも重なったものといえる。

米国の利益のために組まれたチームではあるものの、メンバーは踊ることに喜びを見出し、自らの立場との葛藤を抱えながらタップダンスに取り組む。
クリスマス公演でジャクソンが言及する通り、彼らは戦争によって人生が一変した者達だ。
ギスは徴兵前、ソビエト連邦の設立した舞踊学校でトップの成績を収めるダンサーだった。彼は内心では踊ることを渇望しているものの、英雄の弟として「同志」から向けられる期待に応え、体制に貢献して生きる道を選ぶ(また、消極的な者は大韓民国に寝返ったとみなされ粛清される環境上、選ばざるを得ないともいえる)
ギスが舞踊、両親、家、恋愛など、自身が失った、あるいは手に入れられないものについて、米兵ジェイミーや兄ギジンに対して吐露するシーンは痛切だ。中でも大韓民国(以下、韓国)で生まれ育ったパンネとギスのロマンスは、戦争と収容なしには成り立たず、それ故に結実しないというジレンマを持っている。手をつなぐことやキスといったスキンシップが米兵(及び彼らが促した舞踊)によって他律的になされることは、ギスが自分の意思で選択できる行動が極めて少ないことを表す(それだけにクリスマス公演で彼が自らパンネにキスをするくだりにはカタルシスがあるのだが、その後の展開が……)
収容により配偶者と引き離されたジョンサム、戦争で両親を失ったパンネ、異国の地で収容されているシャオパンも、同様に戦争やイデオロギーの対立によって人生が一変し、苦境に陥っている。

そして、宗主国の都合によって引き裂かれ、苦しむ彼らは、最終的には「黄色人種」として一括りにされ、米兵に見境なく銃撃されて命を落とす。
ここには権力による強力なラベリングとヒエラルキーがあり、ほぼ無抵抗のパンネ、ジョンサム、シャオパンが即座に撃たれる一方で、米兵のジャクソンは「人殺し」と叫んでも危害を加えられることはない。
ジャクソンも米兵の中では人種差別を受けるマイノリティであり、所長をはじめとした上層部に振り回される立場だが、それでも収容所の中ではアジア人と一線を画した扱いを受ける。舞踊で心を通わせようとも、彼と他の4名は決して「対等」ではない。
また、朝鮮人の中でも権力に近いサムシクは銃撃に巻き込まれず生き延びる。
イデオロギー対立や大国の支配、それに伴う権力構造が立場の弱い者を蹂躙し続けていることを直視する姿勢は一貫しており、また、踊りはこの事態を直接的に変える力を持たない。

本作はこうした現実をシビアに描く一方で、ダンスの持つ引力や、ダンスによって結びつく人々の喜びもまた真摯に描いている。
緊迫した状況であってもクリスマス公演のダンスチームによるパフォーマンスは眩い照明の中で観客を鼓舞するスペクタクルとして示される。
メンバーが殺害される光景、彼らの存在や行動が米国によって書き換えられた現代のシークエンスの後に、5人がダンスによって感情を共有していた時間の回想を配置し、連帯が確かに存在していたことを強調して終わる構成もまた、作り手によるダンスへの信頼と肯定であるといえる。

また、前半には、ギスが身の回りで起こる出来事のすべてがビートを刻んでいるように感じるシーンがある。これは誇張された表現だが、心臓が一定の間隔で鼓動を打つことをはじめ、「拍に乗って動くこと」は人間にとって普遍的な行為だ。
舞踊が言語や立場、バックボーンの違いを超えたコミュニケーションを可能にするのは、ヒトの生の基調としてビートがあるからだと考えられる。

本作のダンスシーンで特に印象に残ったのは、ギスとパンネがそれぞれの置かれた場所で、デヴィッド・ボウイ"Modern Love"に合わせて踊る様子をクロスカッティングで見せる場面だった。
このダンスは途中からふたりの願望を反映し、実際には起こっていない光景にシフトしていく。
ギスは人目につかない体育館を飛び出し、「同志」の前で思い切り踊ることを夢見る。パンネもくくった髪を解き、自己を解放したいと願う。
物理的に(そして政治的にも)離れた場所にギスとパンネはダンスと映像編集によって接続される。これは前述した踊りが人をつなぐ力を示すと同時に、彼らが現実にパートナーとなることの不可能性を表してもいる。ダンスが終わり、「自由」が幻であったとわかるショットは、ギスとパンネに加え、鑑賞者をも朝鮮戦争と人々の分断という現実に引き戻す効果があった。

ギスの置かれた状況が本当に過酷で、たとえ収容所で生き延びたとしても、彼の望むように踊ることは二度とできなかったのではないかと思う(朝鮮戦争という題材に加え、ギスが1933年、パンネが1931年生まれと明示されることもあり、作品世界がいま自分のいる現在と地続きの場所にある、という印象を強く受けた)
戦争やイデオロギーの対立、権力構造への批判は徹底しており、ギスを慕い、ダンスに惹かれる一方、北朝鮮の兵士のアジテーションに心酔して密告も行う少年の描写は、立場の弱い者がいかに体制に影響されるかを示していた(少年が最後に出てくるシーンで彼が雪原の上に立っているのは、子どもの染まりやすさを表していると感じた)

文化・芸術を社会や政治と切り離せないものとし、ダンスが情勢を変える力を持たない現実をシビアに示しながらも、ダンスによる連帯とダンスが作り出す喜びを真摯に描く本作の姿勢はとても誠実だと感じた。
今後、歴史を考えたり、エンターテインメントを鑑賞する上でも本作を参照していきたい。

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