感想:映画『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』 自力では脱出できない、子どもの苦境

【製作:オーストラリア・アメリカ合衆国・イギリス 2016年公開(日本公開:2017年)】

1980年代のインドに生まれた少年サルーは、貧しい地域で、母親ときょうだいとともに暮らしていた。彼は、時に盗みなども行う活発な兄・グドゥを追いかけるのが好きだった。
10代のグドゥは、夜中に町に出てお金を稼ごうと思い立つ。着いていくといって聞かないサルーは、兄とともに外出するものの、やはり夜更かしが難しく、駅で眠りに落ちる。
グドゥがその場を離れた間に目覚め、回送列車に乗り込んだサルーは、そのまま1600km離れたコルカタに運ばれてしまう。
コルカタではベンガル語が話され、ヒンディー語を使う地域に育ったサルーは周りの人とコミュニケーションをとることも難しい。
家に帰りたいと訴えて街をさまよい、人身売買などの危険に晒されながら、ストリートチルドレンとして生きのびるサルーだったが、あるとき、警察経由で保護施設に収容される。
子どもに対する暴力が存在するその施設で過ごす中で、サルーは養子を求めるオーストラリア・タスマニア島のカップルに引き取られることになる。
その後、幼少期とは打って変わったオーストラリアの環境で育ち、成長したサルー。
メルボルンの大学に進学した彼は、自身がインド出身で、迷子を経た養子であるという生い立ちを周囲に話す中で、地図情報サービス「Google Earth」を使えば故郷が探せるのでは、というアイディアを聞く。
優しい養親を裏切ることになるのではないかという不安を抱えつつも、頭によぎる故郷への思い出に惹かれるサルーは、記憶を頼りに「Google Earth」での故郷探しを始める。

本作は、実際に迷子の末に養子となり、オーストラリアで育った男性がインドにいる家族を「Google Earth」で見つけ出し、再会したという実話に基づく作品である。

おぼろげな記憶を頼りに、現代のテクノロジーと交通網を駆使し、ひらめきに後押しされて故郷にたどり着く経緯は劇的なものであり、映像化に際しては、よりドラマチックに演出することも可能であったと思われる。
しかし、本作では故郷探しそのものと同等かそれ以上に、インドにおける経済格差と、貧困層に生まれた子どもたちの過酷な環境に焦点が当てられる。

全編が129分のこの映画においては、幼い頃のサルーがタスマニアのスーとジョンに引き取られるまでの過程が、全体のおよそ半分を占める。
この過程で示されるのは、世界で7位の広大な面積を持ち、指定言語のみでも22の言語が話される広大なインドにおいて、国内のどこに行っても、子どもの貧困や苦境は共通のものであるということだ。

サルーが生まれたのは貧しい地域であり、栄養状態も十分ではない(オーストラリアで育って成人したサルーが故郷にたどり着いた際には、群衆の中で彼が頭ひとつ身長が高いことがわかる)。人々が教育を受ける体制も整っておらず、サルーの母は読み書きができない。
冒頭で、グドゥは運行する機関車から石炭を盗んで市場で物々交換を行ったり、小銭を拾うなどの方法で、苦しい生活に少しでも彩りを加えようとするが、これも、そのような手法を取らざるを得ないほど貧しく、職業の選択肢も限られていることの表れだといえる。

そんな故郷から1600km離れたコルカタは、インド屈指の人口密度を持つ大都市であり、商業施設が立ち並ぶ。
しかし、その街でも、貧困層の子どもは衣食住が保証されない生活を送っている。コルカタの公用語であるベンガル語を話すことができず、身元のわからないサルーの存在は、この街でことさらに問題になることはない。それは、保護者を持たず、路上で暮らす子どもが、コルカタには数多くいるからだ。
地下道に段ボールを敷いて休み、廃棄物の中から少しでもお金になるものを探し求め、廃墟で雨を凌ぐストリートチルドレンとなったサルー。親切にしてくれた大人に、恐らくは性的サービスを行う目的で売られかけるという場面もある。
後に登場する保護施設でも、職員が夜中に子どもを外に連れ出し、危害を加えていると示唆される場面があるように、大人が子どもを搾取したり、暴力の対象とする例は数多いと考えられる。インドの子ども達にとって、大人は安心できる存在とはいえない。(だからこそ、子ども達は大人による「保護」を歓迎せず、逃げ回る)
後にサルーが警察経由で入れられた保護施設において、大部屋で雑魚寝する子ども達が、星空を見上げながら祈りを込めて合唱するシーンがある。これは、実際には起こっていない、サルーの記憶や願望を反映した幻影(本作には頻出する)であり、インドにおいて、安心できる居場所や身寄りのない子どもがどれほどたくさんいるか、そして、その中で大人になっていくことの厳しさを反映する。
サルーの保護者は新聞経由で捜索されるが、見つからず、その後、養子を求めるオーストラリアのカップルに選ばれたことで、彼は施設を出ることになる。
サルーと仲の良い施設の少女が言うように、これは大変な幸運である。彼女の発言や作中の環境から、恐らくは養子にとられても、暴力を振るわれたり、労働力として扱われ、搾取される子どもが大勢いることが想定される。
その中で、国外のゆとりある家庭で育てられ、教育を受けられるのは、ごくわずかな子どもだけであると考えられる。

サルーがタスマニアに向けて出発する際の旅客機の座席は、彼が故郷からコルカタに運ばれた際に誤って乗り込んだ列車の座席と構図が似せられている。
遥かな距離を移動しても、インド国内にいる限り、その環境は「地続き」である。カースト制度の影響もあり、国外へと飛び立たなければ生まれた時点での社会的な環境を変えるのは極めて難しいことがわかる(迷子にならずに故郷でそのまま育った場合、サルーが現在ほど文化的・経済的に豊かな生活を送ることはほぼ不可能に近かったと思われる)

サルーがメルボルンの大学で知り合った、インドにルーツを持つ同級生は、いずれも外国で大学教育を受けられる、裕福な家庭に育った人々であり、サルーの背景とのギャップも強調されている。(グドゥとサルーが食べたくてもお金がなく買えなかった焼き菓子は、オーストラリアのホームパーティーでは、たくさんの料理のうちのひとつであり、気軽に手に取られるものという位置づけだ)
「ボリウッド」や、国際交流的なパーティーのBGMになるポップミュージックといった、西欧から見たステレオタイプなイメージは、インドのごく一部に光を当てたものに過ぎないことが示される。

また、たとえ、サルーのように苦境から抜け出す「幸運」に恵まれたとしても、過酷な環境に晒され続けた子ども自身のトラウマや無力感が癒えるとは限らない。
サルーに続いて、ジョンとスーの養子として引き取られたマントッシュは、ストレスを感じると頭を壁にしきりにぶつけるなどの自傷行為をすることがあり、成長後も、サルーほどには社会に馴染めず、ドラッグを求めることもある。
全編を通して、子どもの頃に暴力や貧困に遭い、個人として尊重されないことがいかに人間を苦しめるか、そして、そうした環境からの自律的な脱出がいかに難しいかに焦点が置かれていた。

映画の最後に、インドでは毎年8万人の子どもが行方不明になることと、そうした環境に晒される子どもへの支援を求めるテロップが表示される。
スーが作中で述べる、子どもの数が増え続ける一方、それぞれの子どもが尊重され、安心して育てる環境は足りていない世界において子どもを求める場合、血縁上の子どもを新しくつくるよりも、保護者のケアを受けられない子どもを引き取る方が良いのではないか、という考え方には、個人的には共感を覚えた(「子どもを持つのは未来の社会のため」、というレトリックに違和感を覚えることもあり……保護犬・保護猫を家に招くことへの考え方とも通ずるように思う)

また、本作で印象的だった点に、サルーが徹底して「視覚」で故郷を覚えており、それを思い出していく点がある。
サルーはGoogle Earthの衛星写真や街の写真といった、「見たもの」を通じて、インドでの生活やたどった道を再現しようとし、うろ覚えの故郷の名前の響きから、インドの地名を参照して候補を絞る、といったことはしない。
(恐らく、教育環境やサルーの年齢もあって、言語的な感覚が後景化していたこともあると思う)
終盤、サルーが、当初想定していた範囲の外側に故郷があると気づいた際、衛星写真の平板な地形図を見ながら、実際にその山や道を駆け回っていた場面を反芻するシーンなどは、並外れた空間認知能力だなと感じた(実際に、サルーはインドに行った際、迷うことなく故郷の生家のあった場所にたどり着く)

また、サルーが「自分が何者かわからない」状態から、故郷を見つけることでアイデンティティを取り戻す過程を描く中では、先述の幻影がたびたび登場する。また、映像面でも、「どこか/何かを見ているサルーの姿」を映すミディアムショットが多く、「サルーが見ている/見たもの」の重要性が強調される。
サルーは、オーストラリアの街中で、エスカレーターに乗って移動し、初めて見るファストフードをこわごわと食べ、マットレスに横たわる兄グドゥの幻を見る。また、自分が迷子になった日、置き去りにしたサルーが駅から消えたことに戸惑うグドゥの姿を思い浮かべる。
最後に明かされる通り、グドゥはサルーが列車に乗った同じ夜に、別の列車に撥ねられて亡くなっているため、これは現実に起こった出来事ではなく、あくまでサルーの想像の中のグドゥである。
オーストラリアのグドゥは、年相応の寂しさや好奇心を露わにしている。これは、大人になったサルーだからこそ想像できる姿だろう。
歳の離れた背の高い兄を追いかけていたサルーは、時間的・空間的な距離を経て、自分自身がマントッシュの兄となったのちに、自分を引っ張る兄であったグドゥが、ひとりの子どもとして何を考えていたかに思いを馳せる。
目の前に拓けているばかりで途方もなかった世界や出来事を立体的に思い描くことで、実際の故郷にたどり着き、自分自身を知る、という流れは鮮やかだった。

また、「何者でもないサルー」に出会い、彼を知ろうとし、愛そうとしたルーシーの存在も、自己を取り戻す過程では重要だったと感じる。彼女を「享受する」傾向にあったサルーが、故郷に向かうことを決めて初めて、ルーシーの家に自分から会いに行く、という筋立ては、オーストラリアの家族とのコミュニケーションの変遷と併せ、成長譚として巧みだったと感じる。

一貫してシリアスなテーマを描く作品である一方で、幼い頃のサルーを演じるサニー・パワールのチャーミングな姿も印象的だった。特に、自分を置いていこうとするグドゥに力持ちぶりをアピールするシーンと、タスマニアに最初に訪れた際に「Tasmania」と書かれたTシャツを着ているシーン(史実とのこと)が愛おしかった(後者は、養親に少しでも気に入られようとする姿であるとも解釈できるので、手放しにカワイイ!とは言えない面があるが)

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