感想:映画『ステージ・マザー』夫唱婦随からの脱出/「自暴自棄」ではない自由

【製作:カナダ 2020年公開(日本公開:2021年)】

米国テキサス州で教会の聖歌隊指導をする主婦メイベリンのもとに、ある日1本の電話がかかってくる。それは、家を出てサンフランシスコで暮らしていた彼女の子どもであるリッキーの死の知らせだった。
葬儀に赴いたメイベリンは、リッキーがドラァグクイーンとしてゲイバーを経営していたこと、そして彼女がバーを相続することになっていることを知る。
保守的なコミュニティに属してきたメイベリンは、まったく異なる価値観や文化に戸惑うものの、聖歌隊で培ったスキルや、自分やサンフランシスコの人々のリッキーへの思慕の念を原動力に、バーのプロデュースに取り組んでいく。

本作は制度の絶対性を否定し、特に家父長制に基づく夫唱婦随の構図によって抑圧されていた女性が自我を表出する過程に焦点を当てる。
一方で、ドラッグや暴力といった、「自由の希求」によって起こりうる心身への危害を防ぐこともテーマとし、自分を損なうことなく自由を手にすることが重要であるとも示す。

主人公メイベリンは、積極的にLGBTQ+を排斥する態度を取っていたというよりは、リッキーの指向や希望を受け入れきることができず、強権的な配偶者の意向に逆らえなかった結果、子どもと距離を置くことになった人物として描かれる。
メイベリン自身は、リッキーが父親との衝突で荒れた際に部屋の壁の色を自由に塗っていいと言うなど、彼女なりに子どもを尊重していた。彼女が幼少期のリッキーと遊ぶ際によく歌を唄ったことや、調度品のセンスなどは、ドラァグクイーンになった後のリッキーにもポジティブな影響を与えている(リッキー自身も、母親に認めてもらうまではパートナーのネイサンと結婚しないと決めていたことから、母に対しての感情はどちらかといえば好意的なものであると窺える)
しかし、メイベリンの配偶者ジェブはリッキーが望む生き方を否定する。マッチョイズム的な価値観を持つ彼は、メイベリンが子どもの葬儀に参列することを許さず、バーをどう管理するかも当然のように自らの一存で決めようとする。
ジェブは自分が家族をコントロールできると考えている、家父長制を内面化した人物であり、作品冒頭までメイベリンはその決定に従って生きていたことがわかる。
このように、配偶者と必ずしも考えが一致しないものの、パートナーを「立てる」ために、その決定に自分の意思の主張を躊躇う人(特に女性)は普遍的に存在すると思われる。

これに対し、本作では制度が人間の感情や関係、内実を担保しないことが強調される。
法的にバーを相続したのはリッキーの両親だが、彼女とともにバーを作り上げたのはネイサンをはじめとする仲間たちである。テコ入れが成功した後も、メイベリンはバーを成り立たせているのは自分ではないと考え、最終的にはネイサンに店を譲り渡す。
メイベリン自身も、先導をとってバーを改善し、長年の家庭運営で培ったスキルでサンフランシスコの人々を助ける経験を通して、自分の持つ能力を生かし、またそれが十分に肯定・評価される場所を得る。
終盤に彼女はネイサンに対し、「指輪(=婚姻関係)」が実生活でのコミュニケーションや決定に対しては力を持たないと述べる。
本作で提示されるのは、自他の存在を認め、尊重し、それに沿って行動し続けることが人間関係において最も大切だという姿勢である。

このように家父長制が批判される一方で、メイベリンのコンサバティズムそのものが否定される訳ではない。
彼女が関わるまでのバーのパフォーマンスは、あまり洗練されていないリップシンクと、過激でセクシャルなジョーク(いわゆる下ネタ)を中心に構成されていた。これに対し、メイベリンはクイーン達に自分の声で歌うよう指導し、常連客以外が鑑賞しても楽しめることを目的として、歌唱中心の華やかなショーとしてのクオリティを高めていく。
こうした路線変更は大衆迎合や「漂白」的な面もあるが、コミュニティ内の共通言語への過度な依拠や排他性からの脱却という点では有効だと思う。(また、下ネタそのものを否定していないことはメイベリンと妹の会話からわかる)

また、リッキーの死の直接の原因となるドラッグや酒の過剰摂取は、社会から排斥・抑圧された結果、所属するコミュニティ内で広く流通するドラッグに耽溺することにアイデンティティを見出したり、既存の規範から逸脱することそのものを目的とすることが理由のひとつにあると考えられる。
同意の上でのSM的なプレイを好むシエナが、相手に「怖いのでやはり今回はやめておきたい」と意思を伝えたところ逆上され、暴力を振るわれるシークエンスについても同様だ。逸脱を楽しむことと/逸脱による自己表現と、逸脱のために苦痛を負うことは別だが、その境界が曖昧になり、結果的に心身に深いダメージを負う場合がある。
メイベリンは、生前にリッキーをサポートできなかったことの償いの意味も込め、彼女達が健康を害することを防ぐため尽力する。
道を外れていることそのものに価値を見出す考え方もあると思うが、個人的には不健康であることを肯定・称揚する風潮がとても苦手なので、「自分を心身ともにいたわった上での自由」を求める本作の姿勢には好感を持った。

この映画では、リッキーの生前の言動が直接回想シーンとして使われることはほとんどなく、写真やDVDといった作中に登場するメディアと伝聞によって彼女の姿が構成される。
ある程度推測できるとはいえ、彼女のバーや周囲の人々に対する真意が明確になることはない。
このため、メイベリンやネイサン、仲間達が亡きリッキーに対して行うことの一方向性が強調されるが、一方で追悼が生者による生者のためのものであることを的確に表しているともいえる。
ラストシーンで、パフォーマンスを行うメイベリンとクイーン達の白い衣装をスクリーンとしてリッキーの動画が映されるのが印象的だった。リッキーを取り巻いていた人々が協働して「リッキー」の像をつくり、それを観客に示すプロセスは、本作における「追悼」を象徴する。

メイベリンが作中のあらゆる問題を非常にスムーズに解決する点や、もう少しネイサンに花を持たせてもいいのでは……等、気になる点もあったものの、ドラァグマザーを尊重するなど肉親/家族への偏重に陥らず、若者の中にもマイノリティに不寛容な人がいるという描写でエイジズムを避けるなど、全体的にはバランスの取れた作品だと感じた。
また、メイベリンがサンフランシスコで同郷のホテルコンシェルジュ長と意気投合するロマンスもあるのだが、彼がメイベリンに「あなたは学生時代は自分のようなタイプではなくアメフト部の男子に夢中だった」と言うのが印象的だった。ジェブが実際に友人達とフットボールのテレビ観戦に興じる(そして当然のようにメイベリンに給仕させる)点も含め、スクールカーストに支配された世界で「男らしい人」が魅力的に見えることと、その後の長い人生における実態との乖離は生々しく、個人的にも覚えがあって興味深かった。

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