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言の葉綴り

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日記のような、エッセイのような。 日常の中で感じたことや考えたことを、言葉が溢れるまま徒然に書いています。
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記事一覧

「先生」の崩壊とこれからの時代の新しい師弟関係の形

私は、京都の奥座敷、レイキ発祥の地でもある霊山、鞍馬山で「伝統靈氣道」の伝授(アチューメント)をしています。いわゆる「レイキの先生」です。さらに、今までセルフヒーリングの講座などを開催して教える立場もさせていただいていました。 でも、実は私は「先生」にはなりたくない、と活動を始めた当初から思っていました。「先生」と呼ばれることに、いつもある種の寂しさや居心地の悪さを感じていたのです。 今日はタイトルの通り、これからの時代の新しい師弟関係について、徒然に書いていきたいと思い

一元論の視点をもって、二元論の世界で生きていく

数年前、カナルタという文化人類学的ドキュメンタリー映画を友人と観に行った。 南米のシャーマンと共に生活し、彼らの生活をドキュメンタリーとして映画にまとめた「観る」文化人類学作品だ。 その作品の最後で、シャーマンがアヤワスカを飲んで吐き、苦しみむ場面が写されていた。(真っ暗闇だったので声しか聞こえず、姿は見えなかった( その描写を見た私の友人は、「なんでそんなことをするのか分からない。びっくりした」と言っていた。彼女にとって、それはかなりショッキングで、理解不能なことだっ

スピリチュアル業界について感じる違和感

私は、京都の奥座敷、レイキ発祥の地である鞍馬山で伝統靈氣道を伝授している。つまり、レイキヒーラーだ。 レイキを伝えているということは、一般的には「スピリチュアル業界に属している」とカテゴライズされるのだと思う。 でも、「スピリチュアル業界、しんどいな。」 「なんか、本質からズレてるんだよな。」 最近の私は、ずっと前から漠然と感じていた そんな違和感を無視できなくなってきて スピリチュアル業界から距離をとるようになっていたりする。 「全部愛だから♡」とか アセンションと

残響残歌

なんで。 なんでこんなに弱い。 なんで普通の人が普通にしてることが 自分には普通にできない。 なんで。なんで。なんで。 生きてることがしんどい。 「普通に生きる」 それがなによりも私にとっては難しくて 私にとっては苦しくて痛くてつらくてたまらない。 それでも、生きなきゃいけない。 「生きるってしんどいよ。  生きてるだけで苦しいよ。  そういうもんだよ。」 って私の周りの人は言う。 わかってる。 みんな頑張ってる。 みんな苦しみながらも、頑張ってる。 前を向いて

勝手にパソコンが意味深な歌詞を出してきたので、とりあえずメモっておきます

パソコンで色々と調べ物をしていて、 いつものように気になる単語をコピー後、 別タブでcommand+vで貼り付けました。 なんかできない。何で? 数回やると、ペーストできた。 でもペーストされたのは 「遥か遠くに浮かぶ」 という言葉。 え?私がコピーしたのは 「宇喜多直家」なんですけど😂 カスってもいなさすぎて笑う。 しかも、そんな言葉を入力もコピーも した覚えはないよ?笑 こういうこと、たまにある。 で、トップ画面にはガンダム?の動画と その下には「祝福」という名

使命とは、生命のバトンを受けとって生きていくこと

「わたしの使命ってなんだろう?」 そんな問いを抱く人は、とても多い。 でも、その答えは「わたし」という 個人の人生の尺だけで探そうとしていたら、 もしかしたら見えてこないものなのかもしれない。 「わたし」という生命に至るまでに どれだけの生命があったろうか。 生命は、バトンを渡して進んでいくリレーのようなもの。 そこに、終わりはない。 親が、祖父母が、ご先祖様が、 解消しきれなかったこと、 乗り越えきれなかったこと、 やり終わらなかったことを 受けとって、 自分の生

シャドーワークはライフワーク

ずっと、苦しくて仕方がなかった。 どうして、うまくできないんだろう? どうして、幸せになれないんだろう? どうして、「良い子」になれないんだろう? どうして、みんなと違うんだろう? どうして、「普通」ができないんだろう? どうして、いつもこんなに苦しんだろう? どうして、頑張っても「ここ」から抜け出せないんだろう? いつも、苦しくて、つらくて、しんどくて、仕方がなかった。 ◇ 中学生で THE SECRET の本に出会ってから、自己啓発本を読み漁り、どうやったら幸せに

自分の感情を置いてけぼりにしない

今朝、全然用意をしてくれない娘に 30分を経過したところで ドカンときて、怒りが現れた。 怒りは全然鎮まらなくて、 お出かけもメイクもしたくない! もう放っておいて!が出てきた。 「相手は3歳でしょ。あなたは28歳。 大人なんだから、切り替えて 早く用意してよ」 母にそんなことを言われながら 「そんなの関係ない! 嫌なものは嫌なの!」と ソファに寝転がって ひたすら胸の痛みに寄り添った。 1人にしたくなかったの。 この、自分の中に確かにある この存在を、無かったことに

「癒し」についての考察と重要性

この記事では、今までずっと書きたかったのだけれど、なぜかなかなか書ききることができなかった「癒し」について、いつもとは違う側面から書いていければと思います。 私は、「癒し」はすべての人に必要不可欠で、絶対に避けては通れないものだと思っています。 「癒し」こそ、学校で先生たちが教えるべき事柄だし、「癒し」こそ、家庭の中で、家族全員が学び、身に着け、そして実践しているべきことだとおもうのです。さらに、世界をより良い場所にするため、平和と愛に満ちた世界にするために必要なたったひと

幸せに生きるために手放すべき意識

先日、信頼するヒーラーさんの施術を受けにいった時のこと。 なんともなしに「断乳したいんだけど、なかなかできなくて」という話をすると、彼女は「罪悪感を手放してね」とわたしに伝えた。 この彼女の言葉は、わたしのとって、とても大きな気づきだった。 今日は、「罪悪感を手放す」ということについての、そのヒーラーさんとの会話をまとめていこうと思います。 罪悪感は諸刃の剣罪悪感は、さまざまに感じる感情たちの中で一番タチが悪く、厄介な感情かもしれない。なぜなら、罪悪感の感情は、自分だけ

「自由」と「安定」

「 自由 」と「 安定 」の定義って、 自分にとって、なんだろうと考えてみた。 私にとっての「 自由 」とは、 直感やインスピレーションが降りてきたときに できる限り時差なく、それを行動に移せること。 そして「 安定 」は、 時差なく直感やインスピレーションを 行動を移すことができるための、 環境的・金銭的・精神的・肉体的な余裕があること。 そうやって自分にとっての 「 自由 」と「 安定 」の定義を 改めて言葉にしてみると、 明確にわかったことがある。 それは、具体

記憶とマインド、そして「わたし」という不可思議な存在

先日、Memento (メメント)という映画をオススメされて、観てみた。 (画像はネット上からお借りしました) 観終わった後、「記憶ってなんなんだろう」「果たして、わたしたちのマインドは信頼に足るものなのか」「そもそも『わたし』と認識している対象は存在しているのか」... そんな哲学的なことまで深く考えるきっかけをくれたので、今日はそんなことをつらつらと書いていこう思います。 記憶のあやふやさそもそも最近、わたし自身、ふとした時に「記憶ってあやふやだよなぁ」とか、「マイ

私を私たらしめるもの

山深く、空に近い場所に行きたくて 娘と一緒にバスに乗って出かけた。 山道の中、いろんな風景が通り過ぎていく。 隣同士に座った私と娘は、一緒に外を眺めていた。 そびえる山々にうっすらと雪が積もっている風景。 風にたなびく木々と草花、ちぎれゆく雲。 川と、岩たちと、木々と、動物の気配。 そんなものを見つめながら、 あえて娘には声をかけなかった。 ふと、彼女の視線の先を見る。 2人とも同じ窓の外を見てはいるけれど、 見ている先の風景はきっと、同じものではない。 娘から目を

人柱を救う - 人柱統合の儀

- 人柱としての男性性 あえて、かなり省略をし、ぼやかして書きます。 (途中から、降りてきてる) 昔々のある時から、ある存在が、封じられておりました。 その理由、分からず。 その目的、分からず。 いつからかも、いつまでかも分からず。 ただ、そうであった。 そして、その「存在」は、男(男性性)であった。 その「存在」は、恨んでいた。 あれよあれよという間に、 入れ替わり、すり替わり、 混乱の中、氣づけば鎖に繋がれた身。 人柱となって、ここに在る。 「なぜ」 その