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牧歌の眠る丘

きみはまっしぐらだった。みんなここではないどこかへ行くことを望んでいたのに、きみはきみであることがわかっていて、ちょこんと座り込んで、息をするように花を摘んでいた。あまりにも楽しくて、眠れない夜もあった。そういう時は、ホットミルクを飲んで、それから、幸福のぬくもりの中で安らいだ。あの甘い匂いを覚えているだろう?

きみは恋をするように、野放しで、たくさんのきみではないものと遊んだ。たんぽぽの綿毛、透き通っためだか、雨で崩れてしまった砂のお城、誰かの体温を運ぶぬいぐるみ。愛着がきみを可愛くしていく様は、どうしようもなく奔放で、際限がない。だからぼくは、きみを見つけた。

このすそ野で、お互いを感じながら、風を感じてゆらめいているのは、ぼくたちふたりだけだ。若草がさらさらと音を鳴らす。鹿が遠く林の影から顔を覗かせる。またひとつ風が吹いて、きみの帽子は飛んでいってしまった。この風が、受け止めるべきものではなく、受け容れる他ないものだとわかったとき、風は歌になった。

歌は時代のうつろいと共にあって、価値を失わないものの底を流れているようだった。ぼくたちは、どんなに簡単なことも、すぐに忘れてしまう。それはきっと、この風がぼくの中ではなく、きみとぼくのあいだを通り抜けてゆくからだった。きみも聞いたことがあるはずだ。色も、匂いも、形もあるけれど、誰のものでもないその歌を。

きみはきみであることがわかっていた。生きていくこと、その責任を負うのは、なんと美しいことだろう。そのひかりかがやいているのは、栄光ではない。それはきっと、いきものとしての栄養によって培われてきたもので、それは他の何にも代えられないよろこびであり、同時に、深いかなしみでもあった。

ぼくは、きみと見つめ合っているあいだだけ、ぼくというものが存在しているのを、仄かに感じることができた。ぼくときみのあいだ、ぼくといきものの本質のあいだ、ぼくとぼくのあいだ。そこにぼくのすべてがあるようだった。きみのまなざしが、ぼくをかたち作ろうとする。きみと空と土の混じり合った匂いが、古い記憶を迎え入れようとする。ぼくたちの明日が、希望とは関係のないものとして開花しようとする。だからぼくは、この世界から必然のようにきみを見つけ出して、この丘に連れてきた。

ぼくたちはきっと、最後まで同じことを繰り返し続ける。古めかしく、素朴で、変わることのない大切なことを。きみはもう、ぼくの隣にはいなかった。でも、そのことがぼくたちの、かつてないつながりを暗示しているように思われた。ぼくは、何もかもがわからなくなってゆく中、この爽やかな風を、この生命の中に吹き入れようとしている。まだ幼かった頃のきみがそうしたように、ね。

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