白夜について

「空白になりたい」

今の気分を説明するのに、これ以上の言葉はないと思った。遥か彼方から、どこかへ帰ってゆくように、鐘の音が聞こえた。

それは、どんな境界ともちがう、お別れの言葉のようなものに包まれていた。その手ざわりに運命を与えるために、きみは日傘をさした。そしてぼくは、ここから飛び降りると決めた。

「越えてはいけません」

母のような声だった。鮮明に、奥深くに眠る加護を呼び起こす声。ぼくは、魔法にかけられたように、上着を脱いで、きみの名前を思い出そうとした。言葉を失ってよろこぶ、きみの姿を。

テーブルの上の静物は、日没を待っていた。汽車がぼくの故郷を通り過ぎたような気がして、ぼくは本を閉じた。きみのせいだろうか。海の匂いがしたんだ。

「誰か、」

どうしても、わからなかった続き。手のひらの上の冷たさは、水なのか、はたまた砂なのか。ほのかにとろみを帯びた白日の下で、ぼくには失うものがなかった。

部屋には誰もいなかった。もう元には戻らないから、放り出された。ぼくは狂ったように笑った。息ができなくて、苦しくて、そして、うれしかった。とにかく、みんな集まればいいのに、と思った。

「そうね」

栓の抜けたプールに、空がぽたぽたと落ちてきた。頭の中で、ばらばらになった白鍵を組み立てようとして、うまくできない。みんな平気だったから、夢を見てしまった。なにもかも、口移しのようだった。

夜明け前。随分長いこと、こうして微睡んでいた気がする。乾いた風が吹いて、きみの足跡は消えてしまった。だから、新しいシーツを敷こうと思う。愛を込めて。

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