なにもない森
トンネルを抜けるとそこは、なにもない森だった。なにもない、けれども明白な森が、そこにはあった。
ちからなく、すぐにへし折れてしまいそうな儚さで、草木が群棲していた。ぼくは、祈るように彼らを撫でる。彼らはぼくの存在によって揺れている。でも、そこには沈黙だけがあって、そのことがなによりもよかった。ぼくはまだ、彼らと語らうための言葉を持っていないから。
ここには、信頼のやわらかな光が降っていた。この目に見えない光は、波打つシルクのうるおいをたくわえて、どこまでも拡がっている。ぼくは、ここにいるみんなと同じように、森に由来しているのかもしれない。ぼくはこの透きとおる沈黙を吸い上げる。そして風化していく、永遠に続くと思われた夜と、ひどく寂れたかなしい運命は。
風景は罪をしらなかった。遠く海のみなもとを予感して、水鳥は飛びたつ。罪をしらないものーーみんなの光、みんなの体温、みんなの枝葉、みんなの心音、みんなの匂い、みんなの運命ーーその美しさをぼくは、こころの奥深くで感じている。この出発はどれほど素晴らしくなるだろう。このやさしくも研ぎ澄まされた、みずみずしい朝は。
ぼくは、足下のゆらめくいのちに敬意を払うように、静かに歩きはじめた。森はそのことを肯定することがなく、また、否定することもない。それは、森がただそこにあったからかもしれないし、その上で、ずっと沈黙していたからかもしれない。だから、ぼくがぼくであることを決定づけるものは、まだなかった。
なにもない森は、天と地に、根付いていた。とくん、とくんと、律動し、安寧と騒擾がきわどく、終わりなく、根付いていた。川のせせらぎ、気分が運んでくる風のざわめき、世界を広げる必要のない動物たち、死と腐敗によって醸成する土壌、そして永遠と戯れるような自由。
どこからどこまでが森なのだろう。ぼくの家も、隣の町も、海も、空も、戦場も、コンサートホールも、養鶏場も、墓地も、果樹園も、マントルも。すべてがなにもない森の一部のようだった。ぼくはやっぱり、ぼくではなかった。この森のなにもない風景の中に、ぼくは溶けてしまった。みんな混ざり合って、静かに、どこかへ。
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