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38_「主の命令を守るかぎりこの地の面で栄え…祝福を受け…とこしえに安全に暮らせるのである。」(2ニーファイ1:7-9)
リーハイは、息子たちへのメッセージを語ると同時に、時代を超えて、わたしたちにも大切なメッセージを伝えてくれています。この部分のメッセージは、すべての人々に共通の真理です。「選択の自由」とそれに伴う「結果」についてです。
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『高価な真珠』に次のような聖句があります。
「あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。」(モーセ3:17)
「選択の自由」とは、神様から人に与えられた、自分自身で選び、行動する能力と特権のことです。誰もこの権利を侵害することはできません。神様は、人のために特別な学習と進歩の機会「救いの計画」を準備してくださっていますが、「選択の自由」はその計画の大切な部分の一つです。この「選択の自由」は祝福ではありますが、どのように行使するかは人に任されており、その行使の方法が重要です。
「選択の自由があるために,人は最後まで堪え忍んで,天の御父のみもとへ立派に帰ることができるかどうか試されます。……選択の自由のおかげで,人は忠実で従順な選択をして自分を強め,人を助け,強めることができるのです。」
『リアホナ』2006年5月号,p.7)
どのように行動するかを選ぶのはわたしたちの自由ですが、その選択の結果を選ぶ自由はありません。わたしたちが何かを選ぶとすれば、それに伴う結果がそれなりに生じるのは当然のことです。選択をしたら、その結果を受け入れなければならないのです。そして、それぞれ、自分でその選択の結果に対する責任は負わなければならないのです。ですから、わたしたちが自分の行動を決めるときに、その行動の結果も選択しているといえるのです。
ラッセル・M・ネルソン大管長は、かつて、十二使徒の時に次のように語っておられます。
「私たちは自由に選択することができますが、いったん選択すれば、その選択の結果に縛られることになります。」
神様の戒めは、わたしたちをさまざまな危険から守ってくれルものであり、わたしたちが賢明な選択をすれば、その時々に約束された祝福を得ることができ、最終的には主の元に戻るという永遠の命へと導いてくれます。以下は、わたしの大好きなデビッド・O・マッケイ大管長の言葉です。
「この命を除いて,神から与えられた賜物のうち,自分の意のままに生活する権利ほど偉大なものはありません。選択の自由は,この世の何よりも貴いものです。…人が主に似た者となることが主の目的です。この目的を達成するために,創造主はまず人を自由の身に創造する必要がありました。人には特別な賜物が与えられています。この賜物は,人間以外の生き物には与えられていません。神は人に選択する力を授けられました。…人はこの神聖な選択の力なしに,成長することはできません。」
わたしは、これまでこの「選択の自由」とそれに伴う「結果」についてたくさんの経験をしてきました。もちろん、正しい「選択」をして「良い結果」を見ることがたくさんありましたが、反対に、間違った「選択」をして「良くない結果」を経験しなくてはならないことも多くありました。それらの経験を通して、たくさんのことを学ぶことができました。その中で一番強く感じていることは、主はわたしを愛してくださって、正しい選択と行動ができた時には大いに祝福してくださり、間違った選択と行動をしてしまった時には、正しい道に戻ることができるように、さまざまな助けを用意してくださっているということです。
「良い選びと行動ができると祝福が、そうでないと罰が与えられる」と時々人々が言われるのを聞きますが、わたしは、これまでたくさんの正しくない選択と行動をしたことがありますが、「罰を受けた」と思う経験がほとんどありません。そんな時でも、もし、わたしが素直にイエス様に心を向けている時には、神様は、わたしが正しい選択と行動が取れるように次のチャンスが与えてくださっているような気がします。
これから出てくる聖句ですが、リーハイがヤコブに語った部分、2ニーファイ 2:27をいつも心して生活したいものです。
「すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。」
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