スッタニパータ04-老子に通じる知足の説
ちょっとずつ聞いてます。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。
「知足」は老子の理想に一致する。
自らに勝つ者は強し。足るを知る者は富めり。by 老子
自分に満足して欲張らないのが日本でも理想とされてきた。
西洋でもストアの哲人にも理想であった。
エピクテートスには仏教の思想家も傾倒していた。
仏教の理想にも通ずる。
エピクテートスの『人生談義』:「君は苦労もしないし、また満足していない。そしてもし君が独りぼっちなら、君は孤独だと言うし、また君が人々と一緒ならば、君は彼らを騙り屋だとか泥棒だとか言う。また君自身の両親や子どもたちや兄弟たちや隣人たちをも非難するのである。だから君はただひとりで居る時は、それを平和とか自由と呼び、自分を神的なもの、神さまらしいものと思うべきであったし、また多くの人々と一緒の時には、俗習とか喧噪とか不愉快とか呼ばないで、お祭りとか集会とか言って、そのようにして全てを満足して受けるべきであったのだ。そうすると、そういうふうに受け取らぬ人には、どういう罰がある?彼が持っているようなそういう気持ちになることがそれだ。ある人は一人で居ることに不満だって。彼は孤独であることがいい。ある人は両親に不満だって。その人は悪い息子として悲しんでいるがいい。ある人は子供に不満だって。その人は悪い父親であるがいい。彼を牢獄に入れるがいい。どんな牢獄にか?彼が今居るところがそれだよ。というのは彼は嫌々ながら居るからだ。人が嫌々ながらに居るところは、彼にとって牢獄である。ちょうどソクラテスが喜んでいたために牢獄に居なかったように、それで私の足がびっこになったのです。つまらんことを言うね君は。すると君はちっぽけな一本の足のために宇宙に対して不平なのか。それを全体のために捧げないのだろうか。君は退かないだろうか。君はその授けてくれたものに、喜んで従わないのだろうか。君はゼウスの神によって配置されたもの。つまりゼウスが彼のところにて、君の誕生を紡ぎ出した運命の女神と一緒に定めたり秩序づけたものに対して、不平で不満なのだろうか。君は全体に対してどれほど小さな部分であるのか知らないのか。だが、これは肉体の点においてだ。というのは、少なくとも理性の点においては、神々に何らおとりもしなければ、より小さくもないからである。なぜなら理性の大きさは長さや高さによってではなく、その考えによって判定されるからだ。」
「知足」は幸せへの入り口。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。
近代文明は欲望に向かって進んでおり、自然環境の破壊などにつながっていた。今はその罰が当たっている。その観点からすると、ここに書いてることは貴いことで、我々が反省すべきところ。
以上
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