思い出の整理
赤いちゃんちゃんこを来た私は誰のかわからないECHOを瓦の上で2本続けて吸って小さなひとつ落とすのでした。突然やってくる虚しさや悲しさはいつから訪れるようになったのでしょう。今日、実家の小屋で探し物をしていたら少女だった時代の母を見つけました。小さな箱には可愛らしい手紙やどこかのお土産のピンバッチ、アクセサリーそして知らない男の人の切り抜きの写真が入っていました。私はそれをダンボールの奥の方に詰め込み腕組みしながらその場をウロウロと歩き回りました。私宛では無い手紙、これからの人生プラン、母は母である前に1人の人間だったのです。私はその事実が受け入れられず、またそんな自分を受け入れられませんでした。私はいつまでも、少女のような浮ついた心が抜けきれずに20を過ぎてしまったのでどう大人になるのか未だに分からずにただなんとなく日々を過ごしているのです。母も同じように自分が何者か分からずに葛藤していた時期があったということが受け入れらず、一人の人間である前に母は母であって欲しかったと思ってしまう自分がとても情けなくて悲しいのです。大人になりたくありません。母親になりたくありません。私はずっと私のまま死んでいきたいんです。その癖、自分以外の人にはすぐ名前や枠組みをつくるので呆れます。世の中見たくないものが多すぎます、世の中知りたいことが多すぎます。矛盾が矛盾を呼んで私の頭の中が壊れそうです。無知は罪だと言うけれど、最近は敢えて無知を選ぶことも一種の生存戦略のように思えてきます。
自分の思い出、父の思い出、母の思い出。認められない、思い出したくない、誰かの私の思い出。いつかいつか認められるまでその日までこの子達はまたいつか。母のケープコートと大島弓子の本とチェスだけ持って小屋を後にしました。
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