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表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬を読んで

若林正恭。私は彼が大好きです。

かつては、少し偏屈なものの見方で、世間にいくばくかうまくなじめない人という印象があり、そんなところに自分を重ねていた。私は自分自身をいわゆる世間一般と比べて”ずれている人”と感じていて、それはどうしようもなくこわいことだった。若林さんは私がひた隠しにしたい部分を世間に露呈してくれる、少し意地悪な言い方をすれば世間知らずな子どものような人でもあり、自分と世間を少しだけ繋いで生きやすくしてくれている存在でもあった。
それから彼は少しずつ変化していき、いわゆるそれまでの偏屈なイメージは少しずつ薄れ、あらゆる人や事柄を受け入れるような雰囲気のある、懐の大きい印象の人になっていった。
よくわからないけれど、そこから私はもっと彼を好きになっていった。

頭の良さ。自分に嘘がなく、心で話す人と共鳴している。お笑いが好きで、常に自分への反省を持っている。どんな文化も根本を否定せず、どんな人相手でも「うん、まあそういう人もいるよね」というスタンスを持っている。
若林さんは私のような人間のこともなんとなく否定しないでいてくれるのではないかなあ。
いつのまにか、「世間知らずな子ども」「自分と世間を繋いでくれる人」から「いつでも自分を受け入れてくれる一歩先をゆく優しい先生」のような存在になっていた。

キューバへ行ったことは、以前ニュースか何かで耳にしたことがあった。
なんでキューバなんだ。長いタイトルの意味も気になる。犬…犬?先生の本だ。きっとまた私になにか教えてくれるに違いない。私は迷わず手に取った。

なんでキューバなのか。どうやら「新自由主義システム」の名のもとに作られた競争社会を過ごす中で灰色にしか見えなくなった東京という街に、もう一度色を付けたかったようだった。血の通った人間の顔を見たい。それがキューバにあると思ったと。
キューバは社会主義国でありいわゆる競争というシステムからは遠い国なわけだが、仮にそこに本当に争いのない世界があるとして、それが彼の、そして彼に自分を重ねる私の求めているものなのだろうか。そして、ゲバラやカストロのような「使っている目」は本当にこの日本にはないのだろうか、と疑問に思った。確かにキューバは陽気そうだなという印象はあるけれど。
もしかしたら彼自身もそれをわかっていたのかもしれない。
毎日の生活の中でいろいろなことがわからなくなる。
自分はこんなに働いて、なにを獲得しようとしているのかしら。攻撃をされる日々、「それでも生き抜いていこうぜ!」と自分を鼓舞しながら強くなっていかなければならないのかしら。どうなれば世間から許されるのかしら。私はずっとこの環境で生きられるのかしら。空の青さに心が動かなくなったらどうすればいいのかしら。
どうしてそれでも「ここでやっていくしかない」と感じているのかしら。

彼はキューバに行って色を取り戻していた。東京に、色をもう一度つけていた。いや、東京にも色はあったことに気がついていた。東京にもチェゲバラと同じような「使っている目」の人はいたのだ。競争のシステムにどうしようもなく疲弊し灰色にしか見えなくなった街を出た彼は、キューバに行ったことでその灰色の中にも「使っている目」をしている人たちがいることに気がついたのだ。
それはそのはずだ。なぜなら、若林さん自身がものすごく「使っている目」の人だから。それはゲバラやカストロのようにわかりやすいものではないかもしれないけど。街を灰色に見ていた若林さんは、私には先生のようにやわらかく、しかし時には世間知らずな子どものように血をたぎらせながら生きている人に映っている。私はそんな彼を見て、今日も私と世間を繋いでくれている、大人みたいな子どもみたいな不思議な人だ、毎日を使って生きている人だ、私も生きなければ、と感じる。

彼がキューバに行って色を取り戻したように、私は彼の活躍する姿を見て、そしてたまにこの本を読み返して自分の色を思い出すのだ。私のピンク、ターコイズブルー、エメラルドグリーンをなくさないように。

#読書の秋2020
#表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬

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