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プレイヤーズヒストリー 米村尚也編

人生は小さな決断の連続だ。幼い頃始めた習い事、中学や高校の進路、そして就職も…。トップアスリートともなれば、その節目節目の多くを自ら「選択」「決断」し、人生という脚本を自分自身の手で描いている選手が多いのではないか。

しかしこの男は事情が違うようだ。
「小さな頃から、親には逆らったことなかったですね」
米村尚也28歳。小さな頃から、父親に言われた通りの道を歩んできたという。しかし、その言葉には続きがあった。

「小さな頃から、親には逆らったことなかったですね。あの時までは」

【プロフィール】
米村尚也(よねむら なおや)
1993年9月28日生、熊本県宇城市出身


熊本県宇城市出身。3人兄弟の長男として生まれた米村は、小学校1年の時にサッカーと出会った。同級生に誘われたのがきっかけで、小学校のチームに入団。「ボランチが多かったですけど、フォワード以外はどこでもやってましたね。トレセンに選ばれることもなかったですし、普通でした」


サッカーが上手くなりたい、好きで好きでたまらない――。米村にはそんな思いが溢れ出るエピソードがいくつもある。「田舎だったので、家の周りが広いんです。庭でリフティングばっかりやってました。自分でルールを決めて、毎日夕方から始めて、もう夢中になって300回、400回できるまで家には戻らないと決めてやってました。親からご飯だよって言われても回数が終わるまではずっとやってましたね。最高で2000回ぐらいまでいきました」。

米村のチームはそれほど強くなかったと言うが、隣りのピッチでは中学生の有名クラブが練習していた。毎年小学生何人かに声がかかったという。いわゆるスカウトだ。米村も「一応、軽く『来てみない?』と言ってもらいました。もちろん、競技志向の強いクラブチームでやりたかったですね」。しかし父親に相談すると、答えはNO。「中学校の部活でやりなさいと。やっぱりそう来たかと思いました。特に詳しい理由は聞いてないですけど、父は現実志向が強かったのかな」。米村はすんなりと父親の意見を受け入れ、中学3年間を部活で過ごす。そして高校進学が近づいてくると、今度は県内のサッカー強豪校への憧れを抱くが…。「全国常連の大津高校に行けるレベルではないと思ったので、県ベスト4ぐらいの農業高校や商業高校を父親に伝えてみたんですが」。またもや父親の答えはNO。「『3年間農業高校に行ったら、農業に就くのか?お前はサッカーのことだけしか考えてない。工業高校に行って、卒業したら働きなさい』と言われて、分かりましたって答えました」。またもや父親の言う通りに、就職につながる地元の小川工業高校に進学する。

「小さな頃から親に逆らったことなかったですね。めちゃめちゃ厳しかったんで」

高校での最高成績は3年生時のインターハイ県予選ベスト8。夏にそのインターハイ予選が終わると、他の選手は就職試験に向けてサッカー部を引退。冬の全国高校サッカー選手権出場を目指した3年生は米村ただ1人だった。

「高校時代は厳しい練習をやっているわけじゃなかったので」。部活の練習だけでは飽き足らず、たった1人、部活後の練習場所を求めて、フットサル場に足を運ぶようになる。そこは偶然にも、大津高校出身で元日本代表選手・巻誠一郎氏がオーナーを務めていた。米村にとって地元のスターがいきなり目の前に現れたのだ。「すごいなとしか思わないですよね、ワールドカップに出てるし、熊本のレジェンド的存在。熊本のサッカー選手と言えばみたいな象徴なので。挨拶ぐらいしか出来ませんでした」。


サッカーに夢中だった米村だが、熊本のレジェンドが作ったフットサル場で次第にフットサルにのめり込んでいく。「スタッフでビーチサッカー元日本代表の前田直樹さんという方が1対1を徹底的に教えてくれて。相手の抜き方とか技ではなくて、『視野』ですね。相手の見方とか奥深いところを追求して言語化してくれました。それがめちゃくちゃ楽しくてすぐ虜になっちゃって」。

高校卒業が近づく頃、その前田氏に提案を受ける。「地元の社会人チームでフットサルをやってみないか?」。米村にとって夢のような話だった。今回は父親も反対はしなかった。「実家から通える場所でちゃんと仕事をしながらだったので特に何も言われなかったですね」。
しかしその3年後、21歳の時に再び父親の猛烈な反対を受けることになる。

熊本の社会人チーム時代、後列一番左が米村
熊本の社会人チーム「KELKEL FUTSAL CLUB」に加入してからは「現場で水道管の配管をやってました」。当時、選手はみな、朝からフルタイムで働いていたため、練習は全員がそろう夜10時から深夜0時まで。ただでさえ遅い練習時間だったが、それでもチームの練習だけでは飽き足らず「1人で残ってボールを蹴ったりシュート練習して、家に帰ると深夜2時半ぐらいでした。そして寝て起きるのが朝6時、睡眠時間は3,4時間…そういう生活を毎日していました。とにかく上手くなりたくて」。上手くなりたい――その一心で努力を重ねる姿は小学生の頃と何ら変わらなかったが、この頃ふつふつと沸いてきた感情があった。「いつの間にか上でチャレンジしたいという気持ちに変わっていきました」。

「上でチャレンジしたい」という気持ちに火を付けたのは、なんとビーチサッカーだった。所属していたフットサルチームは毎年夏限定でビーチサッカーも練習に取り入れ、大会にも出場していた。小さな頃からリフティングが得意だった米村にビーチサッカーはぴったりだったという。「足元が砂浜で平らではないので、ボールを受けたらまずリフティングしてボールを浮かしてからパスするんですよ。スコップという技なんですけど。ボールを上げるのは得意だったし、チームも県大会で優勝して九州大会もベスト4まで行って楽しくて。色んなことにチャレンジしているうちに、フットサルでも上でチャレンジしたいという気持ちが沸いてきました」

地元熊本のチームで3年間を過ごすうち、21歳になっていた。
ここで小さな頃から父親の言う通りの道を歩んできた米村が、初めて一世一代の賭けに出る。

「仕事を勝手に辞めました。父には相談せずに。辞めてから報告したら、それは怒られましたよ」。人生で初めて親に逆らった瞬間だった。すると今度は内緒で「シュライカー大阪」のセレクションを受けに行き、合格を手に入れる。これも事後報告し猛烈な反対を受けるが、この時すでに実家を離れる決断をし、大阪のアパートを決めてきてしまっていた。「もう本当にお願いしますと父に話したら、堪忍したのか、最後はすんなり受け入れてくれました。今、当時の両親の気持ちを思うと心配だったんだろうなって。俺のことを否定するっていうわけじゃなく本当に心配だったんだなって思います。しかも実家から出たこともなかったので、初めての1人暮らしが遠く離れた大阪ですし」。

そして大阪に発つ日、米村が父・謙一さんにお願いしたことがある。「思い切り背中を叩いてくれ」。すると父は息子の背中を思いっきり叩き、送り出してくれた。

「体に気をつけてがんばらなんばい」

後列右から父・謙一さん、母・由美さん


そう、父・謙一さんは、息子がサッカーやフットサルに打ち込むのを否定していたわけではない。むしろ小さな頃から試合となれば、毎回応援に来てくれていた。ただ保護者の輪には入らずこっそり木陰で見守るような人だった。米村が2年間大阪でプレーした後「バサジィ大分」に移籍すると、あれほど反対していた父親がほぼ毎試合応援に来てくれた。「大人になって見てもらうってなかなかないじゃないですか。自分がプレーしているところを見てもらうのはすごい嬉しかったですね。父には褒められるどころか『全然動けとらんたい』でしたけど(笑)」。

21歳で初めて自らの決断でプロ選手への道を切り開くと、翌年移籍した「ボルクバレット北九州」で、人生で一番の出会いを果たすことになる。

北九州時代のチームメイト・チャオパルメイロクリスチャン選手(左)、ウーゴサンチェス選手(右)


「俺らみたいなレベルの選手が謙虚さを持つのは当たり前のことですよね。上手くない選手が謙虚さをなくしてしまったら、もう成長はないと思ってて。学び続ける姿勢だったり、他の人の意見を聞き入れる姿勢、自分の弱さを認めるところを持たないといけないと思ってるんですけど。2人のスペイン人選手は、スペイントップリーグで培われたプレー面だけでなくて、トッププレイヤーにも関わらずフットサルに対する謙虚さ、ひたむきさがあって、常に自分に矢印を向けていて。俺としたらもっと威張ってくれよと思いましたけど、そういうところを全く見せずに対等に接してくれて」。当時北九州は日本の2部リーグだった。スペインとはレベルも環境もかけ離れていたはずだが、彼らは日本と日本人に早く溶け込もうと練習が終わった後日本語学校に通い、数年後にはほぼ日本語でコミュニケーション取れるほどだったという。

北九州で出場機会が減っていた米村に対しても、声をかけてくれたという。「俺はお前のことすごく評価している。だから自分に自信を持て。お前に足りないのは技術じゃなくて心だよ」

フットサル王国・スペインの選手から「心」「謙虚さ」を学び、人一倍努力を重ね続けた米村は26歳にしてついに日本代表候補合宿に招集された。「代表までは行ってないんですけど、それでも初めて代表候補に呼んでいただけた時にはそれこそ両親には改めて感謝を感じました。満足したプレーが出来なくてすごい悔しかったですけど、まだまだここから自分次第でいくらでもやれるなって思わせてくれた合宿だったんで。ずっと一生懸命やってきましたけど、やり続けることに対しては昔から貪欲だったのかなと思います」。

驚くことに去年、「ボアルース長野」に移籍した決め手は長野からオファーがあったわけではなく、自ら長野への加入を希望し、連絡を取ったのだという。「正直大阪から大分、北九州に移籍して九州を転々としていて、ある意味すぐ実家にも帰れる距離にいたので。久しぶりにガラッと環境を変えて、大きなチャレンジをしてみたいな」

長野は今シーズンも、開幕からなかなか勝利をつかむことができない中、去年11月23日のエスポラーダ北海道戦で決勝ゴールを挙げたのこそ、この米村だった。3対2での劇的勝利。しかもコロナ禍以降、有観客でのホーム初勝利だった。

人生は小さな決断の連続だ。21歳まで父親には一切逆らわず、中学・高校・社会人になるまでの進路は父親の言う通りに歩んできた。ただ小学校1年生でサッカーに、18歳でフットサルに出会い、「上手くなりたい」一心で努力を続けるという「決断」をした米村は、小さな頃から、自分の人生という脚本を誰よりも自分自身の手で描いてきたのではないか。

そして去年自らの手でつかみ、辿り着いた新天地・長野で描きたいフットサル人生とは…?
「ボールを蹴るのって楽しいなって思い続けたいですね。自分の楽しさだけでは生きていける世界ではないし、自分がいたいと思うだけでは入れる世界ではないのは分かっています。ただやっぱり楽しい、上手くなりたいという気持ちは変わらない。選手になったからには、観客を巻き込んでサポーターの皆さんと喜びを分かち合って、応援してもらえる選手になりたい。応援してもらえるチームになりたい。始めた頃の楽しさだけではなくて、今この舞台でやらせてもらえるからこその楽しさを追求していきたいですね。この楽しさを味わうために努力していきたいです」。

ライター:武井優紀

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