見出し画像

プレイヤーズヒストリー 田中智基編

今季のボアルース長野には、一際目立った風貌の選手がいる。Fリーグ初年度からプレーし、今年で37歳を迎える田中智基だ。アフロ、三つ編み、ヒゲ...どうにも顔周りに目がいってしまうが、プレーもインパクトは絶大。左足の華麗なテクニックで見るものを魅了してきた。

田中選手が小学生のときにセルジオ越後さんと撮った写真


サッカー王国・静岡県の沼津市出身。幼稚園からサッカーを始め、その後も地元の沢田小と金岡中でボールを追いかけた。チームのレベルは決して高くなかったが、田中自身は「ずっとプロを目指していた」という。3歳上と4歳上の兄の試合についていき、そのまま上級生に混ざってプレーすることもあった。
 
中学時代は、高校サッカーの名門・静岡学園高への入部を目指した。小学5年のときに知人を介して同校の選手のプレーを間近で見て、感銘を受けたのがきっかけ。「『静学(静岡学園)に行けばこんなに面白いサッカーができるんだ』と思って、そのときからここに入ると決めていた」。当時はセレクションがなかったため、中1から練習に参加し、中3になると「顔を覚えてもらうために」と空いた土日に足を運び続けた。

静岡学園時代の写真(左)


そうして念願の入部を果たし、1学年約40人の環境で競争に励んだ。元Jリーガーの小林祐三と松下幸平が同期。DFからFWまであらゆるポジションをこなすも壁は高く、トップチームに入ることは一度もなかった。それにもかかわらず、プロを目指してJリーグ・ヴァンフォーレ甲府などの門戸を叩き、あえなく撃沈。「もうサッカーをやめよう」と思っていた矢先に、フットサルとの出会いを果たす。
 
「当時お世話になった先生(齋藤興龍・現静岡学園高コーチ)がもともとフットサルをやっていて、『足元の技術があるんだから、フットサルをやりなよ』と言ってくれた」。齋藤氏の紹介を受け、卒業後は神奈川県のP.S.T.C LONDRINA(現湘南ベルマーレ)に渡る。初めての練習では「間合いが違いすぎてボールをすぐに取られるし、取ることもできない。これがフットサルなんだと衝撃を受けた」という。そこで自身のモチベーションに火がつき、2年間プレーしたのちに同県のUFC JAZZY SPORT新横浜へ。翌年に開幕するFリーグへの出場を目指した。
 
「当時(2006年)は大洋薬品/BANFF(現名古屋オーシャンズ)がプロとして始まって、野嶋倫と豊島明とは仲が良かった。彼らが活躍しているのを見て、自分も刺激を受けてFリーグに行きたいと思った」。ステラミーゴいわて花巻とシュライカー大阪のセレクションには落ちたが、デウソン神戸に練習参加を経て入団。しかし登録の関係上、一時的に京都のリンドバロッサでプレーすることとなった。
 
数ヶ月後に神戸への登録が完了し、Fリーグ初出場は第7節。奇しくも湘南との古巣対決だった。相手には憧れの野嶋と豊島がいて、田中がボールを持つと「勝負しに来い」と手を叩かれたという。試合は1-2と敗れたが、今も自身にとって最も印象に残る試合だ。

湘南ベルマーレに所属していた時の写真


神戸には2年間在籍し、日本代表候補にも選出。その後は古巣・湘南に帰還し、野嶋と豊島とチームメイトになった。「代表候補に入ったときは『やっとここまで来られた』という気持ちだった。自分がレベルアップした中で、今度はあの2人と一緒にプレーしたいと思って帰ることにした」。湘南には3年間在籍し、2010年に全日本選手権の決勝も経験。大阪に0-4と大敗し、初タイトルの夢は絶たれた。
 
2013年には神戸に復帰。「出られるのが当たり前になるのが嫌で、環境を変えたかった」と経緯を明かす。2015年に再び全日本選手権の決勝に進んだが、名古屋に1-3と敗れた。Fリーグ初年度からプレーしているものの、今もタイトルには恵まれていない。それでも常に向上心を忘れず、日本最高峰の舞台で成長を重ねてきた。

アグレミーナ浜松に所属しているときの写真

2015年にはアグレミーナ浜松へ。地元・静岡県でプレーできる喜びを感じていたが、リーグが2部制となった2018-19シーズンにはチームが最下位に沈む。入れ替え戦の相手は長野。第1戦は3-3、第2戦は1-4で、2戦合計4-7と敗れてF2降格が決まった。長野の柄沢健監督は、浜松に対して「10回やって1回勝てるかどうかの相手」と評していた。しかし田中は「F1のチームの『勝てるだろう』という感じと、F2のチームの『絶対に上がってやる』という気持ちの差は全然違ったと思う」と振り返る。史上初の入れ替え戦で、独特の雰囲気に呑まれた部分もあったかもしれない。

アグレミーナ浜松に所属しているときの写真

浜松には7年在籍したが、その裏にはさまざまな要因がある。地元への想い、F2降格に対する責任感、自身が働くアパレルブランド『LUZ e SOMBRA』とクラブの親密な関係性…。また、歳を重ねる中で「フットサル以外のことにもいろいろと挑戦して、チームの状況を変えたいと思っていた」。F1復帰は果たせなかったものの、コート内外で精力的に駆け抜けた7年だった。

19番山蔦一弘さん、山蔦さんの右手にいるの方が山本優典さん

2022年、新天地として選んだのは長野。「この歳になって、もう一回F1でやりたかった」と胸中を吐露する。それだけでなく、山蔦一弘コーチと山元優典コーチの存在も大きい。神戸と浜松でともにプレーした戦友で、神戸時代は3LDKの家に3人で住んでいた。「家族のようなものだから、信頼関係はもちろんある。その信頼を裏切るつもりはないし、裏切るなんて話も出ない」。
 
2007年の長野セントラルで、田中は一回り年下の中村亮太にサインをしていた。チームメイトとなった今は「おう、智基!」と親しまれ、「いじってくれるやつがいて良かった」と安堵。彼も含めて長野は若いチームだが、その中で大ベテランがどう振る舞うか。「コーチの2人にもそれは言われているし、自分なりにも考えている。今まで培ったものをどう還元するか。ファン・サポーターに対してどういう存在であるべきか。それがあと何年表現できるかと言えば、限られた時間しかない」。
 
違いを見せられる自信はある。コート内では技術で観客を沸かせ、コート外では地域貢献に精を出す。その独特な風貌のおかげで、周囲に覚えてもらうにも時間はかからない。クラブの巡回指導に参加すると、子どもたちだけでなく保護者からも人気だ。ちなみにアフロデビューは高3の春休み。「なぜか分からないけど、小さい頃からアフロにオーバーオールがかっこいいと思っていた」。この凡人には理解し難いエピソードからも、田中智基が只者ではないことが分かるだろう。
 
Fリーグ初年度から今季開幕まで、なぜ15年も現役を続けてこられたのか。本人は「足元があるからじゃないか」と笑う。「そんなに走れるわけでもないし、強いわけでもない。でも、技術では昔から誰にも負けたくないと思っている」。昨季の長野が見せた泥臭さに、彼の技術がいかにマッチするか。当然ながら守備のタスクも求められるが、「監督に言われたことをやるのが選手。その中で自分の色を出していきたい」と意気込む。
 
慣れ親しんだ地元を離れ、4季ぶりのF1の舞台。「この歳になってもF1でやれるというのを見せていきたいし、長野県でフットサルとボアルースを人気にできれば良い。会場に1000人、2000人が入ったり、子供がうじゃうじゃいたりと、目に見える結果を出したい。もちろん試合に勝たないと話にならないけど、そういう部分でも違いを見せられたら」。どこまでもエンターテイナーな男から、今季は目が離せない。

いいなと思ったら応援しよう!