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卑怯者になった野原ひろし


お久しぶり
イノタコNote第5段だ

最近、Nintendo Switchで出来るレトロのテレビゲームの数々をやりまくってて、サボってました(笑)


今回は
物議となった、クレヨンしんちゃんの映画における悪役への対応について自論を語っていこうと思う

本来は推しの子の危険性について語ろうと思ったが、時期を逃してしまったので原作が完結するまで延期するつもりだ


いつもの通り反論は受け付ける
私は禅問答がしたい

というか
4回もやって、未だに反論が一件も来ないのはどういうことだ


論理のないただの罵りは即座にブロックする

因みに
私は包茎です


  • 恨みを抱えた悪役、非理谷充


まずは
何があって、そんなにX内がザワついてしまったのかを軽く解説していく

日本人なら誰でも知っているだろう作品
クレヨンしんちゃんの映画がことの発端である


クレヨンしんちゃんは
そもそもは大人向けマンガである為ドキツい下ネタエロネタが豊富な作品であり、それがまさかのゴールデンタイムで放送され子供向け作品として変化していったコンテンツだ

セックスネタがかなり薄くなった代わりにケツを出したりする程度の下ネタへ変化し、それでもPTAはイチャモンを付け続け、今ではサザエさんやちびまる子ちゃんと同等の毒にも薬にもならない内容に変わってきた

原作者は事故死し
ぶりぶり座衛門役の声優も随分前に事故死して長らくぶりぶり座衛門はセリフを喋れないキャラにされ、野原ひろし役やナナコお姉さん役の声優も病死してしまうなど、悲しい出来事もあったが

それでも
笑いを呼び、映画では感動を呼ぶ路線を取り今でも続いてきているのである

しかし
よりによってコンテンツの要である映画で、今回は大荒れしてしまうことになったのである

一体何があったのか?


映画の題名は
『しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE ~とべとべ手巻き寿司~』

簡単に言えば
しんのすけと悪役である非理谷充(ひりやみつる)が互いに超能力に目覚め、超能力バトルをするといったものだ

実はこの話
単行本26巻の番外編『しんのすけ・ひまわりのエスパー兄妹』という元ネタがある


悪役の非理谷充の名前の由来は『非リア充』であり、もうこの時点で製作サイドは恨みを抱えた弱者男性を暴走させる気満々である

彼は共働きの両親から碌に愛されずに独りで食事をし、同級生からイジめられる幼少期を送る(共働きな点は生活資金は生きていくのに最優先すべきなのでまだ分かるが、せめて親戚やご近所さんや子ども食堂に頭を下げて誰かと一緒に食事させろ)

子供にとって最も自分を守ってくれる筈の両親は碌に助けてくれなければ、イジめられないように充に腕っぷしも社会性も協調性も鍛えてくれない

というか
離婚時に『別々で生きていくから、せめて最後の団欒として手巻き寿司を食べよう』とほざいてる辺り、両親も社会性と協調性が明らかに足りてない

案の定、充は社会の負け組と転落し
33歳で独身の非正規労働者、ティッシュ配りをして何とか生計を立てている

そして
柄の悪いサラリーマンに『いい歳して、こんなことしてんな人間のクズが!!』が蹴り飛ばされる

(クレしんでは
何故かこの様なチンピラがよく彷徨いてる、治安悪すぎではないだろうか?)


そんな辛い人生を送る充が唯一生きる原動力としているのが、アイドルのおっかけである

さっさとそんなの辞めた方がいいのが正論だが
そんな余裕が充にある訳がない、このアイドルのおっかけまでも奪ってしまえば充は遥かに前から自殺したり無敵の人化して殺人をしていてもおかしくないからだ

そして
遅かれ早かれ来てしまうその日は遂に来てしまった、推していたアイドルは自分とは真逆のアルファ風チャラ男と結婚してしまうのだ


唯一の心の安らぎを失ってしまった充
本来ならここで自殺、廃人になって餓死、無敵の人化して数人殺害程度で終わった筈だったが

よりによって
偶然超能力が使えるようになってしまい、積もり積もった社会そのものへの恨みによって別人格が形成

恨みはあっても臆病で悪事などとても実行出来ない充に代わり、別人格の充はアイドルと結婚したアルファ男の車をメチャクチャにしたり、歩きスマホしてるリア充達のスマホを破壊したりする

(あれ?
無敵の人化するよりは遥かにマシじゃね?

子供向け作品で殺戮なんて出来る訳ないから、仕方ないが)


しかし
充の体内にしんのすけが取り込まれたことで、流れは変わる

そこには
充の本来の人格であり、幼少期の記憶たる存在が居たのだ

しんのすけはとても5歳児とは思えない理解力を働かせ、充の初めての友達となったのであった


そして終盤
別人格の充が滅んだ時、充は本来の人格に戻っていた

暴走していた時の記憶はないが
人格が変わっていたことなど、周囲の人々から理解される筈もなく、彼は指名手配犯になってしまうというより悲惨な人生を送ることになったのだ

あまりにも救いようがなさすぎる
充を暴走させたのは彼を守らなかった社会であり、その社会は更に充を追い詰めたのだ

そんな彼に対して
言葉を投げかけたのが、野原ひろしだ


今やクレヨンしんちゃんは
映画での彼の名言や感動が、一番コンテンツを支えているといっても過言ではない

現実では
承認欲求を拗らせたバカが、実際は全く言ってない『野原ひろしの名言集』なるものをネットに公開していた

しかし
裏を返せば、民衆はそういう野原ひろしを欲しているから嘘名言集が出来て、尚且つ騙されて着目した人が大勢現れたのだ


公式もそれを認知しているからか
実際に野原ひろしに感動的なことをさせる、言わせることを重視している

というか
ひろしが映画で感動させることが主な収入源で、アニメ本放送は次の映画までに適当に繋ぎとして放送しているだけの気も


そうとなれば
今回も号泣必須の温かみのある言葉を充にかけてくれるだろう、みんながそう期待していた

しかし
実際に放たれた言葉はとんでもないものであった


『確かに酷い世の中だけど、みんな一生懸命頑張ってるんだから、君も頑張ればいいじゃないか!

君がひとりぼっちだったのは、誰とも友達になろうとしなかったせいで、人は変われるんだから、頑張れよ』






…………は?




  • 悪者でない代わりに、卑怯者になった現代人達


そう
とても野原ひろしの言葉とは思えない、この無責任な発言にXなどのネット上の人々は大困惑したのである

充が暴走したのは
近くに居るにも関わらずに彼のことを守らなかった大人達の所為だし、明らかにイジメてきたヤンキー共である


頑張って独学で身体を鍛えていれば良かったとでも言いたいのだろうか?

それでは
強くなってヤンキー共を返り討ちには出来ていたかもしれないが、通り魔の様になっていた危険性もある

やはり
周囲の大人達が保護して『どう強くなり、どう生きるか』を子供に示してやらねばならないのだ

具体的に社会のどこがこの問題を引き起こしているかのメカニズムについては、話の趣旨がズレてしまうので次回に持ち越すことにする


しかし
私達現代人にとって、このセリフは他人事ではない

何故なら
このセリフを言われる側であると同時に、言う側に私達は立っているからである


ひろしの例のセリフだが
実際はかなりボカされている

言い方を変えると

『お前のことは可哀想だと思う
でも、俺はお前の友達になんてなりたくないし、お前を部下として面倒を見ることも絶対に嫌だ』


『俺以外のどっかの誰かに助けてもらうか、俺以外の誰かがコイツを殺処分しろよ

その殺したヤツに「いくら迷惑なヤツだからって、殺すことはないじゃないか!!」って言って、責任を押し付けつつ、お前の迷惑から脱却するからな』



これが
野原ひろしの本音であり、現代人の本音だ


と言うか
マンガ版では、自分の息子であるしんのすけが『オラ達お先真っ暗なの?』と不安がっているところにすら『頑張れ』の一言である

『そんなことにはさせないさ、父ちゃんがお前達の未来を明るくしてみせる』すら言えてない

『そんなこと俺が知るか、勝手に真っ暗闇でもがき苦しみながら生きろ』と実の息子に言ってやがるも同然だ



前回言った通り
社会的弱者とは、老若男女関係なしに『社会性と協調性のない陰キャ』である

現代では
充の様なアルファ力のない大人しい男が特に『底辺』扱いされ、奴隷として扱われているが

反社であるクソヤンキーや、周りがつまらなさそうにしていることに気付かずに1人でガハガハ笑ってるオッサン、雑に股を開くことで金を得て横暴な態度を当たり前に取ってる夜職女も陰キャに当たる


人間社会は
協調性と社会性で発展したきた為、こういった人種は作物を荒らす害獣の様な存在だ

しかし
無闇に殺せばそれはそれで問題が起きる

だからカタギである陽キャになる様に
陰キャ達を叱り、鍛えさせなければならなかった


だが、そう簡単にはいかない
陰キャのほとんどは産まれながら認識が陽キャとはズレている発達障害者であり、そんな人々を陽キャに無事育てるには時間もコストもストレスも莫大にかかる

障害とは
病気と違って『緩和はするが、治らない』ものなので、社会人としてなんとか自立出来ても陰キャから人間一人分としての労働力は期待出来ない

トドメとばかりに
心だけ優しいバカ共が『迷惑をかけてばかりの人にも優しくしましょう』『パワハラはいけません』『自由恋愛こそが正しい、アルファクズ男バンザイ』などと言ってきて、それを社会は是としてしまった


こうなるともう手が付けられない
社会は陰キャ達の無法地帯となり、暴力的な陰キャが大人しい陰キャを虐げるという、まさに映画でのチンピラサラリーマンと充の図となっていった

しかし
『子熊(陰キャ)に餌を与えてはいけない、大きくなると暴れて恩を仇で返すし、恵まれた檻から外に出すとまともに活動せずにピーピー文句ばかり言うから』

『というか、そもそも保護して世話をするのが大変』

と気付いた人々は
陰キャ達を助けるのを辞めるようになった


一方で処罰して安楽死させることも嫌がる
『大事にならないようにクマを撃ち殺そうとすると、声だけデカい無責任な動物愛護団体が文句を言ってくる』からだ

明らかに安楽死させた方が正しい場合も
正しいことをした側が悪者扱いされ、集団リンチに合ってしまうのだ

無論
こんなことをされれば、自ら犠牲になって安楽死させてきた人達もバカバカしくて辞めてしまい

余計に陰キャ達は生き地獄を味わい続けるし、陽キャ達は陰キャ達に困らせられるのだ

『俺の見えない所の誰かに陰キャの対応と責任を肩代わりしてもらいたい、そしてソイツを無責任に罵倒したい

でも
他の皆んなも同じ事考えてどんどん対応してくれる人が減って、どんどん被害が蔓延していく』

これが
数ある現代社会のドス黒い闇の1つだ


2016年にあった
相模原障害者施設殺傷事件は、まさに現代人が心の奥底で求めてる光景である

優しい誰かに陰キャの面倒を見てもらって自分の代わりにストレスを抱えてもらい、その優しい人が限界を迎えて陰キャを殺害してもらう、そして『この極悪人め!!』と非難する

↓この様な顔をしながら
面倒を見てくれた殺人犯を極悪人呼ばわりし、『仮に、俺が面倒見てたらそんなことはしなかった(大嘘)』と自分はさも善人かの様に振る舞うのだ


悪人にならなくなった代わりに
この様なとんでもない卑怯者となった人は決して少なくない

今回の映画の野原ひろしを非難しておきながら
自分もそのひろしと同じことを考えている人は、一体何千何万人と居るのだろうか?

たかを括っていれば
私も君も、簡単にひろしと同じになってしまうのだ


  • 弱者男性の悪役を出すこと自体が、そもそもの間違いだった説


この映画で問題なのは
ひろしのセリフ以前に、充というキャラを出したことであったと私は考えている


確かに
可哀想な過去を持った狂人のヴィランは人気がある

あのウルトラマンでも
超絶リア充でエリートのウルトラマンタロウと親友だったが、落ちこぼれの自分と比較して嫉妬し続けたうえに不憫が重なり続けたことで、悪堕ちしてドクズなことを次々と行うウルトラマントレギアというキャラが登場したぐらいだ


理不尽に振り回された現代人は
癇癪を起こし何もかもメチャクチャに破壊したい衝動に駆られており、同じように悲惨な過去を持っていて恨みのあまり暴れ回るヴィラン達に共感するのだ

上手く生きることが出来ない陰キャ(特に弱者男性)は特に応援したくなるのであろう


おそらくだが
充という、恨みの詰まった弱者男性のヴィランを出したのはこの人気にあやかる為だと私は考えている


しかし
アニメや映画のクレヨンしんちゃんで、その様なヴィランを出したところで人気になる訳がない

何故なら
アニメや映画のクレヨンしんちゃんの顧客は陽キャである子供達であり、その子供が親になって次世代の子供と一緒に楽しむ作品だからだ

そんな顧客が充というヴィランに共感する訳もなく
下手をすると、問題発言をしたひろしに共感している可能性すらある


そして
現代は情報が簡単に手に入る社会だ

普段クレヨンしんちゃんを観ない様な陰キャ達にも、ひろしの発言と充の不憫さはあっという間に伝わってしまった


これにより
Xを含めたネット上では、ひろしに対して非難轟轟+充に同情するといったことが起きたのだろう

私のこの分析が当たっていたとすれば
明らかにこの映画を担当した監督や脚本家はド三流であり、現代人の卑怯さをひろしに代弁させるだけの映画になってしまった

最早、様々な方面で
この話題は救いようがなくなっている


長くなるので今回はここまで
次回はこの問題に対して、社会はどう変わっていくかの私の予測について話す予定だ

さぁ
追記・修正していこう

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