【鶴かもしれない2022】 感想、女を通して見る自分


※内容についても触れながら書いています。

観劇回 : 2/24 ソワレ

感想書こう!と書き出してから投稿までにかなり時間が経ってしまいました…。

観劇のきっかけは九十九龍城を観に行ったときに貰ったフライヤーを見て、面白そ〜!と思い、気づいたらチケットを買っていました。
初演〜20年公演までも観たことがなく、もっと言えば小沢さんのお芝居も、1人芝居そのものも観るのが初めてで、すごく新鮮な気持ちでした。

現代版鶴の恩返し。
鶴の恩返しの話自体はぼんやり知ってるくらいだったので、知ってた方が楽しめるかなと不安に思っていましたが杞憂でした。

前置きはこの辺でおわり

まずこの舞台で特徴的なのは、ラジカセから流れる音声と会話をすることで場に2人いるように演出している点。
1人芝居で複数の役を演じるとなると、芝居のタイミングは自分である程度作ることができるが、音声と会話することによってタイミングを相手に委ねることになる。
1人芝居というよりも本当に2人で芝居している様で、流れる音声は同じでも、自分の反応で芝居の雰囲気が変わるのが面白いなと思いました。

後半のコロコロと役を入れ替えて言い争っているシーンとの、テンポ感の差も感じられて、なお楽しめました。

考えたり感じたりしたこと。

以下枠内、劇中の台詞からの引用です。

『最後に足を引っ張るのは私だ』


自己犠牲が必ずしも人のためにならない、最終的にはその自己犠牲こそが自分の足を引っ張る…。


『鶴は助けてもらった時、何を考えていたんだろう』


この台詞がすごく刺さりました。
助かりたいと思っていたのか?
ここで死んでしまえば楽だろうか…?

それは誰にもわからないけれど、どんな事を考えていたとしても、最後に手を差し伸べられたら、その手を掴んでしまいたくなるんだろうか?そんな事を考えました。

助けてもらって、また恩返しをして、最終的にはまた自分が自分の足を引っ張って傷ついてしまうとしても。

女はそうして生きていく事で心をすり減らして、何度辞めようと思っても繰り返してしまうループにハマっているんだな…とやるせない気持ちになりました。

これって『人のために』行動することが『自分のため』になってしまっているんじゃないかなと感じました。どこか『助けてもらった人に恩返しをしている自分』を女は見ているようだなと。考えすぎかもしれませんが。

観劇後、ぐるぐると70分間のことを思い出していた時に気づいたのですが、おそらく私は女に自分のことを重ねて観ていた様でした。

現代版 鶴の恩返しと言うだけあって、「夢が無い、自己肯定感が低い」女はかなり現代人っぽいように思います。こういうことを言うと誰かの地雷を踏んでしまいそうですが、あくまでも個人的な解釈ですのでご理解ください。かくいう自分も自己肯定感が低く、わたしには何もないなと感じることがあるし、夢を持ってそれを掴むため努力している人には強く惹かれます。そして、その人のためなら多少の自分の犠牲は厭わないというところもあります。

似ていると感じたものには自然と感情移入してしまうし、女のことを見ていると自分を見ている様で、心の中でずっと、『わかる…わかるよその気持ち…』と女に声をかけていました。


さいごに

今後もパワーアップして『鶴かもしれない20〇〇』が上演される事を期待してこれから過ごそうと思います!素敵な作品と出会えました。こちらを読んで気になった方はぜひ。


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