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[柔道/プロレス]キムラロック・フォールアンドライズ

痴漢を取り押さえた時の話を聞かせてくれと後輩に言われたのでこう説明したんです。
「逃げようとする相手の左腕を後ろからつかんで引っ張ろうとするがどうしてもパワーで引きずられてしまう。だからもうこれはキムラロックしかないと思って・・・」
すると、後輩がこう言うんです。
「え?木村?木村ってだれですか?」

というわけで今回はキムラロックと木村の因縁の話を書きたいと思います。

GOATより強いといわれる男、木村

GOATといえばトム・ブレイディですが、柔道の世界にもGOATはいます。
山下泰裕。柔道に興味がない方でもその名前は聞いたことがあるんじゃないでしょうか?
生涯勝率9割7分以上、14年近くにわたって200以上の連勝を重ねた山下泰裕は柔道史はもちろん、スポーツの歴史に残る偉人です。
が、柔道マニアの間では山下泰裕よりも強かったのではないかとまことしやかにささやかれる人物がいます。
それが木村です。

1917年生まれ。幼少のころから古流柔術を学び、中学時代に競技柔道を始めてからは連戦連勝。その名前は熊本から九州へ、九州から全国へととどろき渡ることになります。
1940年代はじめには兵役による競技生活中断をはさみつつも、勝利を重ね続け、のちのGOAT山下泰裕を超える15年間無敗という記録を打ち立てることになりました。

プロ転向・・・しかし・・・

日本が再独立を果たした1950年、木村は当時立ち上げられていた「プロ柔道」に転向します。
そこでももちろん連勝を重ねるのですが、やがてプロスポーツとしての「プロ柔道」は行き詰まりを見せてしまいます。興行としての魅力が訴求できないプロスポーツは存在が許されませんからね。結局「プロ柔道」は1950年のうちに崩壊してしまいます。

「プロ柔道家」でなくなった木村はプロレスに転向します。
当時のプロレスはGHQやら正力松太郎やらといった戦後の日本の方向性を決定づけた人たちが多くかかわっており、プロ柔道よりはよほど基礎体力と将来性がありました。
プロレスラー・木村は1951年にプロレス興行のため、ブラジル海外遠征に向かうことになります。

エリオとの死闘、そしてキムラロック

ブラジルで順調に興行をこなす木村。ここでも柔道殺法で連勝を重ね、観衆を沸かせます。
しかしそのとき、木村の前に立ちはだかる男があらわれたのです。
エリオと名乗るその男は、日本人から柔術の手ほどきを受け、やはり連戦連勝を重ねるブラジルの柔術家でした。

日本最強が勝つか、ブラジル最強が勝つか、エリオと木村との勝負はかのマラカナンスタジアムで行われました。"あの"マラカナンです。
この試合は白熱しながらも凄惨な結末を迎えました。
試合終盤、木村はエリオの左腕を取ると背後に捻り上げます。完全に極まったかのように見えましたが、エリオは「参った」しません。ブラジル最強の意地でしょうか?
木村はなおもエリオの腕をひねり上げます。結局エリオの腕は文字通り折れてしまいました。
このとき木村が使った技こそキムラロック。
その名前は現代まで語り継がれることになります。

1950年時点での「プロレス」

エリオはそののちもブラジルで活躍を続け、勝ち続けます。
後年に本人が語ったところによると、エリオが試合で負けたのはこの時だけだったのだそうです。

では木村はどうなったか?
帰国後、プロレスラーとして日本のリングに上がることになります。

ここでちょっとプロレスの話をしましょうか。

プロレスってのはあのプロレスなのですが、もともとは「プロ柔道」のようにガチンコの試合を見せるスポーツ興行だったそうです。
が、ガチンコのレスリングなんてものは、特に当時の観衆にとって見ていて面白いものではなく、すぐに行き詰まりを見せたそうです。
1920年代の米国にはすでに現在のプロレスのようなショーアップされた形が主流になっていたようで、このおかげでプロレスは(日本でのプロ柔道とは違い)長く人々に愛されるようになります。

当時の米国のトップレスラーといえばルー・テーズ。
テーズはガチのレスリングでも相当に強かったのですが、彼もプロレスラーですので「最強の男」というキャラクターを演じて活躍していました。
そしてもうひとり、かのジャイアント馬場をして史上最高のレスラーと言わしめるバディ・ロジャーズ。
こちらは完全にショーマンレスラーで、現代でいうリック・フレアーのような存在(てか、リック・フレアーがバディ・ロジャーズのキャラクターを受け継いでるってのが正確な表現です)ですが、人気という面ではテーズをはるかにしのいでいたそうです。

「昭和の巌流島」

話を戻して1950年代の日本のプロレスです。
この時代の日本におけるトッププロレスラーは元大相撲関脇の力道山でした。
力道山は日本にプロレスを持ち込んだ偉人として知られており、まさに国民的人気を得ていました。

しかし力道山はバディ・ロジャーズらが活躍する米国のプロレスをそのまま日本に持ち込んだわけではありませんでした。
これは力道山自身が考えたわけではないとわたしは考えているのですが、力道山は「プロレスとは勝負であり、ガチのケンカ」という形で日本にプロレスを紹介しました。
もちろん、やっていることは我々がよく知る「プロレス」なのですが、力道山のこの紹介を日本人ファンたちはそのまま受け入れました。

そんな力道山がいる日本のプロレスですから、プロレスラーとしての木村の序列はどうしても2番手ってことになってしまいます。
「柔道が相撲の下であってはならない」木村がそう考えたかどうかはわかりませんが、木村は力道山に挑戦状をたたきつけます。

「昭和の巌流島」。
現在ではこう呼ばれる木村と力道山の対決は最初は「プロレス」として行われる予定だったそうです。
が、なにがあったのか、この試合はいわゆる「プロレス」ではなく「ガチ」の試合になってしまいます。
この結果、木村は力道山の前に敗北を喫してしまうことになります。

ここで木村の表の歴史は終わります。
以後木村がプロレスの歴史の中で語られることはありません。

日本のプロレスはその後、力道山が若くして死に、ジャイアント馬場に受け継がれ、アントニオ猪木の手により大発展を遂げました。
まさにガラパゴス。米国におけるプロレスとは全く違った独自の進化を遂げます。
力道山が持ち込んだ「プロレスとは勝負であり、ガチのケンカ」というノリはおもにアントニオ猪木によって実践され、広められてゆきます。

しかしその歴史の中に木村の名前は一切出てきません。

キムラロック、40年越しの逆襲

木村は1993年に鬼籍に入ります。
プロレスラーとしても柔道家としても多くを語られることがないままの旅立ちになってしまいました。
人々の記憶にかろうじて残っているのは「力道山のプロレスに負けた木村」という印象くらいだったでしょうか。

しかし、木村とキムラロックの名前は木村が亡くなった翌年の1994年に突如陽の目を見ます。

日本に降り立った一人のブラジル人は日本のプロレスラーたち、(高田延彦や船木誠勝といったアントニオ猪木の弟子にして)力道山の孫弟子たちを柔術によって次々リングに沈めていきます。

このブラジル人こそかの偉大なるエリオの子、ヒクソン・グレイシーです。
無敵の男エリオに唯一土をつけた木村の技・キムラロックを引っ提げて圧勝を続けるエリオの子を見て、当時の日本人たちはこう思いました。

「ガチだケンカだなんだかんだいっても結局プロレスは八百長であり、本物のガチのグレイシーには太刀打ちできねーんじゃねーか」

木村に負けたエリオの子は力道山が作った「日本のプロレス」そのものを大きく揺るがしていったのです。これは見方によれば「木村イズムが力道山イズムに圧勝」と言えるかもしれません。
歴史に消えた男・木村の40年越しの逆襲劇です。


・・・・この話もNFLのうわさ話と一緒で、わたしが知ってることを書いてるだけなので、細かい部分間違っているかもしれません。
でもなんというスペクタクルなのかとおもいませんか?
てなわけで木村のお話でした。

あ、そうそう。キムラロックてのは相手の背後で腕をひねり上げる技です。

でも一介のフットボールファンに、全力で逃げようとする痴漢にキムラロックをかける技術などあるはずもなく、腕をひっぱっておまわりさんが来るまで時間稼ぎをするので精いっぱいだったんですけどね。

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