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[プロレス]テレビ局のシュートマッチ

だいぶ前の記事で太陽にほえろ!のことを書きました
でも「太陽にほえろはわかったんだけど日本プロレスはどうなったんだよ!?」という方もいらっしゃると思いますので、前回の話の後日談です。

ジャイアント馬場独立!

日本テレビでのプロレス中継が打ち切られ、日本プロレスの中継はテレビ朝日が独占することになりました。
国民的スターの馬場は番組に出続けていますが、水面下では日テレによる馬場独立のための交渉と準備が進められています。

そして馬場が独立する時がやってきました。
馬場は日本プロレスを対談。日テレのバックアップを得て「全日本プロレス」を旗揚げしました。
日テレは「全日本プロレス」の中継番組をスタートさせます。
金曜夜8時はすでに『太陽にほえろ!』の枠でしたので、あらたに土曜夜8時の枠が用意され、その後ながらくこの時間帯が日本テレビのプロレスの時間になります。

してやられたのはプロレスの放送枠を金曜8時に移していたテレ朝です。猪木に続いて馬場までもが日本プロレスを離脱したことで、またしても番組の主役を失ってしまいました。

日本プロレスは大木金太郎、坂口征二を新たな主役としてプッシュしますが、馬場や猪木ほどの人気を得ることはできず、テレ朝のプロレス中継番組はじりじりと視聴率を下げてゆきます。

テレ朝の逆襲

これに対処すべく、テレ朝は一計を案じます。
それは追放という形で日本プロレスを追われていたアントニオ猪木をふたたびテレ朝に登場させようというものでした。

アントニオ猪木は日本プロレスを去ったのち、仲間たちとともに「新日本プロレス」という団体を立ち上げていました。
現在日本で唯一東京ドームを満員にできるプロレス団体である新日本プロレスですが、このときは4つあるプロレス団体の中で一番下という格付け、倒産寸前の弱小団体でした。
当然、テレ朝としてもそのまま乗り換えというわけにはいきませんので、このようなシナリオを描きます。

日本プロレスと新日本プロレスは合併。新「日本プロレス」のエースには猪木が就く。
テレ朝は猪木率いる新「日本プロレス」の中継をおこなう。

このシナリオ実現のため、テレ朝は勢いを弱める日本プロレスの2枚看板の一人・坂口征二と猪木を引き合わせます。
当時「心情的には馬場寄り」と見られていた坂口でしたが、このふたりは意気投合。坂口は日本プロレス内部の調整に乗り出します。

大木金太郎の抵抗、そして

猪木の「新日本プロレス」は発展的解消し、猪木を含む全レスラーが日本プロレスに合流。
そのうえで猪木が社長に、坂口が副社長になり、テレ朝での放送を続ける。

日本プロレスが弱体化していることは日本プロレス内部の人間もよくわかっていましたし、そのことでテレビ朝日からプレッシャーをかけられてもいましたので、坂口のこの提案は日本プロレスのレスラーやフロントに受け入れられます。ただひとり、坂口と並ぶ2枚看板の一人である大木金太郎を除いて・・・
大木金太郎は「阻止したはずの猪木の乗っ取りを受け入れることになる」「力道山以来の日本プロレスを守らねばならない」と強硬に主張。日本プロレス内部で大木派を広げてゆきます。

これに対し、テレ朝は大木に対し「坂口の提案が受け入れられない場合は日本プロレスの中継は打ち切る」と通告。
しかしこの通告に対しても「テレ朝が力道山の日本プロレスを見限るはずはない。たとえ猪木の新日本プロレスの中継が始まっても、隔週で自分たちの中継も続けてくれるはずだ」と楽観視し、結局坂口を追放してしまいます。

無念の坂口は数人のレスラーを引き連れて新日本プロレスに合流しますが、このとき坂口が引き連れていったのはレスラーだけではありませんでした。
テレビ朝日の放送枠。これこそ坂口が新日本プロレスにもたらした最大のものだったのです。
こうして『ワールドプロレスリング』は新日本プロレスの中継番組として開始され、それが現在まで続くことになります。

金曜は猪木、土曜は馬場。
昭和のプロレスお決まりの形はこうして始まったのです。

日本プロレスあえなく崩壊

中継が打ち切られてしまった日本プロレスは当然のように崩壊してしまいます。
大木金太郎はその後全日本プロレス、新日本プロレス、そして祖国である韓国で活動を続けますが、猪木や馬場、坂口ほどの成功を収めることはできませんでした。

上記のようないきさつから、坂口征二とは浅からぬ遺恨を残してしまったのですが、このふたりはのちに新日本プロレスのリングで対決することになるのですが、その試合は「プロレス」として綺麗なものにならなかったそうです。
まあこういうのも含めて「プロレス」なのでしょうけど。




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