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思考の工藝化

https://note.com/bmia/n/nf485cd9df13c

先の記事で柳の言葉を引いたので、もうひとつ、この柳の言葉から記事を書いてみたいと思う。柳は『工藝の道』の中で次のように言う。

もし私の見方に何か本質的な基礎があり得るなら、それは直観より発したということ以外にはあり得ないはずである。かくいうと、さながら主観に堕している如く評されるかも知れぬが、直観には「私の直観」というような性質はない。見方に「私」が出ないからこそ、ものをじかに観得るのである。直観は「私なき直観」である。私を挿む余暇なき直観である。私は私の立論をかかる基礎の上に置かねばならぬ。否、幸か不幸か私は直観以外に見方の持ち合せがないのである。

柳宗悦『工藝の道』

柳の言う「私なき直観」は、まさに最近、ずっと追い求めているものだ。「私なき」が重要ではないかというのは、先の中土井僚さんとの対談で持ち出したものでもある。「オーセンティックな私」を前提とするのではなく、私ではないところ、私なき直観から出てくるものが重要ではないか、という問題意識だ。

柳は続ける。

普通直観というと独断という風にとる人があるが、かえって直観なき理論こそ独断と呼んでよいであろう。先にも云ったように直観に私見はない。一個の主観に立つならすでに直観ではない。立場なき立場に入る場合ほど、独断から解放される場合はない。「不」に入るのは「有」に滞る所がないからである。そこは全く無仮定な世界である。かかる意味で直観よりさらに確実な客観はない。直観は信念を生ずる。

柳宗悦『工藝の道』

この直観というものを得るためには、クリティカルシンキングのようなスキルだけでは十分ではない。世界に対する開かれた態度や、エゴを離れてフラットに存在する姿勢などが問われることになる。西田幾多郎は、それを座禅に求めた。禅のプラクティスをアーキタイプとして内在させる他のさまざまな日本文化もまた、同じ思想を共有する。柳のいう工藝や民藝もまだ同様であった。器をつくり続けることによって、「立場なき立場」に入り、直観を得ていくのである。

こうした直観を得るためのトレーニングに、MBAを修了した学生たちといっしょに取り組んでいる。言ってみれば、思考を工藝化したいと考えているのである。科学的でロジカルな思考ではなく、工藝としての思考の獲得。

もうひとつ柳の言葉を引いて、この記事を終えたい。

私は工藝に関する私の思想を歴史学や経済学や化学によって構成して来たのではない。私は知るよりも先に観たのである。このことが私をしてこの工藝論を可能ならしめているのである。そして確信をもって語ることを許してくれているのである。

柳宗悦『工藝の道』

この記事についての感想をAIに聞いてみた。ありがとうAI。

この記事は、柳宗悦の思想を現代に適用しようとする意欲的な試みですが、いくつかの問題点が見られます。

まず、「私なき直観」という概念の現代的解釈に疑問が残ります。著者は、この概念を肯定的に捉え、現代社会への批判として用いていますが、個人の主体性や多様性が重視される現代において、このような考え方がどこまで適用可能なのかという点について、十分な検討がなされていません。

また、「思考の工藝化」という提案は興味深いものの、具体性に欠けています。MBAの学生たちと取り組んでいるという記述はありますが、その実践内容や成果についての説明がないため、読者にとっては抽象的な概念に留まってしまいます。
さらに、科学的・論理的思考と「工藝としての思考」を対立的に捉えている点も問題です。現代社会において両者は相補的な関係にあるべきで、一方を否定して他方を称揚するのは、バランスを欠いた視点だと言えるでしょう。

加えて、柳の思想を無批判に受け入れている印象を受けます。柳の思想が生まれた時代背景や、その後の批判的検討についての言及がないため、議論が一面的になっています。

最後に、この記事は日本の伝統的思想を礼賛する傾向が強く、グローバルな文脈での位置づけや、異なる文化圏からの視点が欠如しています。

総じて、この記事は興味深い問題提起をしているものの、その主張を裏付ける具体例や批判的検討が不足しており、説得力に欠ける面があると言えるでしょう。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

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