橋本治の思考と言語
私の文章の元ネタのひとつは、間違いなく橋本治だ。高校・大学時代にもっとも熱心に読んだ作家のひとりが橋本治で、1990年代は円熟期であった。窯変源氏物語という傑作を手掛けつつ、『貧乏は正しい!』シリーズやオウム事件に応答した『宗教なんかこわくない!』、傑作『浮上せよと活字は言う』などの論考を矢継ぎ早に発表し、とにかくその思考を高速に回転させ続けていた。
とにかくまどろっこしい文章は、しかし人は言葉によって思考するのだということを、自ら実証してみせるようなところがあった。橋本治を読むということは、橋本治と思考をともにするというところがあって、途中の寄り道もいっしょになって河川敷に降りていく感じだし、急に自転車で爽快に駆けていくときには、同じ風を感じるようであった。文章は思考である。そして思考は文章である。その文章は、鏡のように思考と二重写しになり、「思考の思考」の様相を呈してくる。
引用してみよう。
「ややこしいタイトルになります」ではない。作家なのだから、「ややこしいタイトルにした」が正しいはずだ。しかし、橋本治は、その思考につれられて、思いもよらずそうしたタイトルにたどり着き、なるほどそういうことか、と思う。そしてそれは、「私が思っているからです」という自己発見につながる。
確固たる私があって、その私があるコンテンツを届ける、という形式を取らない。私が書くことによって、私の思考が動き、その思考の動きを辿っていくと、私が事後的に発見されていく。どこから始まったのかわからないようなループが、ぐるぐると回り続けるのである。橋本治の思考の高速回転は、螺旋階段のように上り詰めていくようなイメージだ。
そしてこの「私」は、常に変化していく。思考と言語のループの中で、毎回異なる橋本治が浮かび上がってくる。そのたびに美しさが変化するように。『人はなぜ「美しい」がわかるのか』のまえがきは、次のように締めくくられる。これは、橋本治が一瞬の現象のように起こっては消え、起こっては消えるような、橋本治の著作がもたらす稀有な読書体験を示しているようでもある。
文章と思考が寄り添って二重写しになる。このことによって、橋本治の傑出した古典の現代語訳もなされた。初期の傑作である枕草子の桃尻語訳は、清少納言の思考を完全にトレースして成し遂げられたし、窯変源氏物語も双調平家物語もそのように書かれた。そこでは、さまざまな橋本治が発見され、とてもじゃないが一々を記憶できないほどだ。そんな橋本治のことを、今日ふと、思い出した。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授