エックスワンと呼ばれた子

妊娠中、私は割と平和で呑気な妊婦だったと思う。

つわりも安定期に入った頃には驚くほど軽くなった。つわりの時期はそれなりにつらく、毎朝出勤前の夫が枕元に剥いたミカンを一つと水をコップ一杯用意して行ってくれたものを、しなびた顔ですすっていたものだが。とは言え、つわりのときに食べられなくなったものはツナマヨ、それだけだ。あとは少しずつなら口に入れることができたし、飴やガムでごまかしながら仕事もできた。匂いや触覚過敏も出たが、日常生活にそれほど支障は出なかった。

妊娠中は特定のものが食べたくて仕方がなくなる人は多いらしい。私の場合は明太子。毎日のように夫に明太子のおにぎりを買って帰ってきてもらっていた。妊娠前は明太子なんて一年に2~3度しか食べようと思わなかったものなので、妊娠中の心理と言うか欲求というものは、本当に不思議だ。出産後は憑き物が落ちたかのように、あまり食べなくなった(妊娠前から比較すると頻度は増えたが)。 噂レベルの話だが、この「妊娠中に母親が憑かれたように食べていたものが、子供の好物になる」という話がある。私の母は私を妊娠中、ハムばっかり食べていたそうだ。ハム、大好きです。

安定期に入り、お腹が明らかに出て胎動が出てくると、何となくそわそわしてくる。おお、いるな。なんか私の意志では自由にならない気ままな生き物がいるな、と、つい腹をペタペタ触ってしまう。義母には「よくお腹を撫でて可愛がっていた」と記憶されているらしいが、私は愛おしさというよりは自分の肉体に発生した不可思議を触って確認していたのだった。もちろん、まだ見ぬ我が子はそれなりに可愛いものだったが。

夫にとってもこの「胎児」という存在は不可思議で謎めいていたらしく、まだ腹の中の存在とは言え便宜上名前が必要だろう、という提案に対して

「じゃあ……X1(エックスワン)かな……。」

と言ってのけた。あんまりと言えばあんまりである。ベイビーちゃんよかなんぼかマシだが。

胎動はいろいろ種類があって面白い。足や腕で叩いてくる「どんどん」や、身体をくねらせて腹をえぐる「ぐにょにょ」、しゃっくりの「ひくひく」 一番面白かったのは、携帯電話のバイブみたいな「ビビビビビ」だ。一体人間がどんな動きをしたらこんな振動が生まれるのかと不思議でならなかったが、どうやら「排尿」らしい。母親の胎内で排尿の練習をする時に、羊水に排尿の振動が伝わって震えるらしい。すげえな人体、ワンダー排尿。

妊娠後期には仕事も一時休業し、出産に備えてあれやこれやと準備していたのだが、この頃になると日常生活の難易度が上がる。腹が出すぎなのだ。 着替えも厳しい。パンツを履くのにひいふう、靴下履くのにぐえぐえ、倍ぐらい時間がかかる。身体の幅を見誤って腹をドアにぶつける。体重の増加で歩くのも遅い。仰向けで寝ると腹の重みが背骨にダイレクトアタック、もちろんうつ伏せにもなれず、寝返りのたびにおう、とかぐえ、とか言っていた。 大きくなった子宮がぐいぐい内臓を圧迫するので、胃には食事がつっかえ、便秘にはなるし、排尿時には子宮に押しつぶされた膀胱がレーザービームを出したりする。ベニヤ板を切断できるかと思ったほどだ。

それにしても、こうやって自分の身体に起こる変化をじっくり体験できたのは実に面白かった。心理状態もかなり変化する。私はいわゆるマタニティブルーというものにならなかったので、まったく呑気にあれこれを楽しんだ。

妊娠期間40週0日。予定日きっかりに子供は生まれてきた。



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