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自己紹介~ものづくりに魅せられた27歳体育会ビジネスマン~

こんばんは、佐藤亮介と申します、社会人6年目の27歳です。
元々三菱電機という電機メーカで営業職に従事しておりましたが、転職を機に思考の整理・棚卸しを主目的にnoteを始めることにしました。
まずは今までの人生の振り返りも兼ねて、自己紹介の記事を書いていこうと思います。

1.幼少期・学生時代

兵庫県姫路市郊外の佐藤精機株式会社という小さな町工場の長男として生まれました。両親は幼い頃は家業の町工場で夜遅くまで仕事しており、創業者であり祖父であるお爺ちゃんが遊び相手でした。祖父は非常に屈強な体躯の持ち主で手はまるで厚手の手袋のようでしたが、熟練の加工技術者としても昔は名を馳せていたみたいで手先は非常に器用でした。キックボードが流行った時に余った金属の残材を使ってなんちゃってキックボードを作ってもらったのが思い出です(笑)
小学生の頃は元ラガーマンの父の影響もあり、嗜む程度にラグビーをやりつつも、実は小学校で卓球をやるのが大好きという、相反したスポーツに取り組んでいました。(卓球は当時の経験もあり、温泉旅館での卓球大会でちょっと活躍する程度の地味な腕前です笑)
小学5年生になると中学受験に向けて受験勉強を始めました。父親が同志社大学出身、姉も同志社の付属校に入っていることから、「同志社に入ったらまたラグビーをやるのかなぁ~」と考えていたら、まさかの同志社には合格できず笑、同じ関関同立の関西学院大学の付属校に入ることに。そこでアメリカンフットボール、通称アメフトというスポーツに出会います。当時はその後に大学日本一4連覇を経験し、なんやかんや12年間もアメフトに携わるなんて想像も出来ませんでした。まぁ、基本的にアメフトに埋め尽くされた分かりやすい体育会系な学生生活でしたね。
アメフトの話は簡単に語りつくせないので後日機会があればお話できればと思いますが、アメフトというスポーツを介して、「努力次第で凡夫でも上の世界で戦える(ただし限界はある)」「頂点を目指すには努力はいくらしても足りない」という努力に関する真理を垣間見たことが一番の学びだったかもしれません。

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2.社会人

就職活動を経て、三菱電機株式会社という電機メーカーに入社致しました。家電から防衛関係まで、幅広い製品を手掛けている総合電機メーカーです。入社理由は、大きく3つありました。

①社会の基盤を支える大きな事業に携わりたかった。
②人と人が考え作り上げる、ものづくりの現場に直接携わりたかった。
③部活の先輩や叔父が在籍しており、社風にもフィットしていると考えた。

この決断は結果的に間違いなく、全てを満たしているFactory Automation事業本部、通称FA事業部に配属され、そこでCNC(Computer Numerical Control)装置という製品の営業を担当しました。CNC装置って何?となる方は多いと思いますが、こんな装置です👇

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(出展:三菱電機株式会社 Factory Automationサイト)

はい、なんじゃこりゃ。って感じですよね(笑)
モニター?モーター?ドライバー?何が何?と入社当初はボクもなっていましたが、凄くシンプルに説明すると工作機械というものづくりには欠かせない機械を作るための機械を制御するコントローラー・モーター・ドライバーを一式に纏めたシステム一式で提供する製品です。

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(出展: ヤマザキマザック株式会社・DMG森精機株式会社HP)

凄くニッチな製品ですが、このCNC装置やCNC装置が搭載される工作機械は日本がものすごく強い分野(CNC装置は日本メーカー2社が世界シェアを約70%占める!!)、工作機械産業の力はその国の国力を現すと言われるほど重要な産業です。実は日に日に国際社会での存在感を増している経済大国・中国も「中国製造2025規画」という国政のもと、製造業の強化を図っており、その対象製品群に工作機械も含まれております。


自分の出自に感謝すべきは、工作機械を作るメーカー側の知見だけでなく、実家が町工場をやっていることにより、工作機械の最終ユーザーである製造現場の意見も仕事に取り入れることができた点です。ちょっとした小話ですが、若手営業・エンジニア研修の一環として実家の佐藤精機訪問を提案し、前職の同僚を召集できたのは自分としても良い思い出となりました。

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三菱電機在職の5年間、この工作機械産業に関わることが出来たことにより、日本のものづくり力の底力・技術力の高さ・細部への拘りなどを知ることが出来たのは非常に大切な学びとなりました。また同時に日本の製造業の背景に潜む課題も知ることができ、自分の人生の方向性を見いだせたのも大きかったです。

3.そして現在

会社・仕事は好きでしたし、有難いことに年に1回ある事業部表彰を在職期間5年間のうち2度も受賞させて頂き、今年度の中国OJT研修にも選出(結局転職するので辞退しましたが...)され、正直会社には感謝しかありません。
しかし、このコロナ禍で自分が所属する三菱電機もそうでしたが、一番影響を受け業績も逼迫していた実家も含む町工場が苦しい中、この製造業の危機に大したことが出来ない自分が悔しくもありました。そこでボクはキャディ株式会社という製造業ベンチャーに転職する決断を行い、現在は製造の現場をより知ろうと実家の町工場で一か月間修業中です。次のnoteで何故この決断に至ったか、詳細を語れたらと思います。
特に製造業の方と深く繋がりたいと思いますので、ぜひ気軽にコンタクトください!最後まで読んでいただき、ありがとうございました🙇‍♂️



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