失くしたものばかり綺麗に見える

 最悪な夢で目が覚めた。俺は思わず上体を起こす。息は荒く、背中に蝋のような重たい汗が流れるのを感じた。浴衣はほとんどはだけている。視界の先には、窓の向こう、夜が満ちた瀬戸内海が黒く横たわっているのが見えた。俺は呼吸を整える。動悸が収まってようやく、今はサークルの合宿中で、小豆島のホテルの一室に泊まっていることを思い出した。

 どうしてよりによって今、あのときの夢を見るんだ。

 4年、いやもう4年半前か。あのときのことは、極力思い出さないようにしてきたのに。今更どうしようもないこととは距離を置いてきたのに。どうしてこう楽しい時間に、それがフラッシュバックするのだろう。
 思わず重たいため息が漏れた。隣で安眠している会員たちを起こさないようにそっと部屋を這い、充電していたスマホを裏返す。時刻は深夜の3時を過ぎたころだった。もう一度寝るか。そう一瞬考えたけれど、また毛布を被って眠りこけるには目は冴えすぎてしまっていた。俺は、はだけた浴衣を整え、半纏を羽織り、そっと部屋を後にした。

 人気のない廊下を抜け、薄暗いエレベーターを降りると、一階のロビーに出た。ホテルの玄関口となるそこはしかし、深夜にもなると静かだった。必要最低限の明りだけついていて、フロントには従業員がひとり、寡黙に、それでいて律儀に、ぴんと立っているだけだった。俺は彼に申し訳程度の会釈だけしてロビーの奥に向かう。そこは小さな広間みたいになっていた。海に面するように壁一面大きなガラス窓が張られ、そのオーシャンビューを眺めるように座椅子が並んでいる。手前には宿泊者が無料で使えるコーヒーマシン、奥には漫画の並ぶ本棚。まあつまり、海を見ながらゆっくりできるスペースがそこにあるということだ。何か飲みながらぼんやりしていよう。俺はそう思い、コーヒーを注いで座椅子の方に向かう。やはりそこは――ロビーと同じように――閑散としていた。手前から三番目の椅子に若い女性が座っているだけ。彼女も手にコーヒーか何かのコップを持ちながら、窓に映った風景を眺めていた。それが静かな夜半の海なら良かったのだけど、いつからか降り出した雨がガラス窓を激しく打ち付け、海は大きく時化っていた。まあ、見ていて気持ちの良い光景ではない。俺は、それでもじっと海を見つめる彼女をやや不信に思いながら、彼女とひとつぶん離れた椅子に座ろうとした。そうして俺が椅子の前に回ったとき、彼女はにわかに肩を跳ね上げ、こちらを向いた。俺がいることにようやく気がついたらしい。彼女は俺の顔を見ると、数秒固まり、そしてうわずった声を上げた。「あ」と「え」の中間のような、言葉になる前の声。俺たちはお互い見つめ合う。そう、俺もまた、彼女に目を離せないでいた。
「S?」
 ペンネームじゃない、俺の名前を呼ばれて、大きく息を吐く。やっぱり人違いじゃなかった。彼女は。
「Oさん」
 彼女が息を呑んだのが感じられた。それは言葉よりも雄弁な肯定のしるしだった。俺は動揺せずにはいられなかった。どうしてこんなところで、こんなタイミングで。
「え、ほんとに? 偶然?」
 彼女もしかし、俺に負けず劣らず動揺しているらしかった。まあそうだよな。ふつうに考えて、こんなところで出会うはずがない。
「たぶんね。Oさんが俺を尾けてない限りは」
 俺は、内心の動揺をできる限り隠して、そう答えた。すると彼女――Oさんは中途半端な笑みを浮かべた後、「じゃあ偶然だ」と小さく呟いた。俺は継ぐべき言葉を見失って、その場に立ち尽くす。そしてひとつの沈黙。遠くに海鳴りの音だけ聞こえた。
「えっと、とりあえず座ったら?」
 沈黙を破った彼女は、自分の左隣にある椅子を指さした。俺は何か返事のようなものを返して(あのときはあまりにも驚きすぎていたから、具体的にどう返したか覚えていない)、彼女の指示通りに腰掛けた。そうして俺たちは並んで、荒れる瀬戸内海を眺める。俺はどうしたものかと思案して、彼女の横顔を盗み見た。彼女は海をぼんやり視界に入れつつも、どこか落ち着かない様子だった。そしてにわかに、彼女もこちらを流し見る。ぱちりと視線が合って、俺たちは互いに目を逸らした。
 彼女、Oさんは、俺の高校の同級生だった。そして、俺の認識が間違っていなければ、友達だった。彼女が地元の大学に進学し、俺が京都に移ってからは、当たり前のように俺たちは疎遠になった。俺は数年前、高校生のときのことを思い出す。あの頃、彼女は友達で、そして。
「久しぶり、だね」
 彼女はそう呟いた。独り言のような、そっと袖口を引っ張るような、そんな声色だった。俺は思考を引き戻す。
「そうだね。最後に会ったのはいつだっけ?」
「同窓会じゃないかな。だから……1年前?」
「うん。1年と、ちょっと」
 そっか、そう言って彼女は押し黙ってしまった。口下手な俺もそれに従う。気まずい沈黙がふたりの間に降りる。両手の内に弄んでいたコーヒーを口に運んだけれど、それは、十分な時間稼ぎをするにはまだ熱すぎた。俺はすぐ口を離して、黙ってしまう。雨粒がゆっくり夜を伝う。
「Sはさ、誰と来たの、ここ」
 また、彼女の方が会話を切り出す。なんだか申し訳なくなる。俺は、彼女の落ち着かない表情や、その瞳に透く感情に意識を向けないようにしながら笑った。
「ふつうにサークルの合宿だよ。今日小豆島に来てさ。一泊二日」
 俺のその言葉に、彼女の表情はやや和らいだ、ように見えた。俺は目を細めた。
「Oさんは?」
「私は友達と。寝ようとしたんだけど、友達の寝言で寝られなくて。思わず下まで降りてきちゃった」
「なんだよそれ」
 俺たちは笑顔を示し合った。彼女の笑うときに少し顔を上げる癖、懐かしいなと思う。俺たちの間に横たわる空気が、一気に緩んだように感じられた。
「あのさ、その通りだったらあれなんだけど、私、Sに嫌われてると思ってた」
 予想外の言葉に少し驚く。
「どうして?」
「だってS、同窓会のとき、全然私と目合わせなかったじゃん。私知らないうちに何かしたかなって」
 ああ。思い出した。確かにそうだった。もちろん嫌っていたわけじゃないんだけど、本当の理由を言うのはちょっと気恥ずかしい。でも、誤魔化し続ける方が無理な話だ。
「そうじゃなくて。いや、そうなんだけどさ。なんか、一瞬Oさんだってわかんなくて」
「そうなの?」
「うん。その、ドレス着てたし、メイクもしてたし。結構変わって見えた」
 すると彼女は急に俯いてしまった。「え」「あ」「うん」と矢継ぎ早に繰り返しながら、セミロングの黒髪を忙しげに手で梳いていた。その仕草に、なんだか俺の方も気恥ずかしくなる。
「変わったかな、私」
「でも、今話したら、やっぱり変わらないな、とも思ったよ」
「すっぴんだから?」
「そうじゃなくて。もっと、根本の部分が」
 癖や、仕草や、話し方。そういった、その人に染みついた部分はなかなか変わらない。それは救いでもあり、またどうしようもない呪いでもある。
「Sは、なんか変わったね」
 彼女は俺の顔を覗き込んで笑う。その言葉をどのように受け取っていいかわからなくて、俺も薄く笑い返した。
「俺はドレスも着てないし、メイクもしてないよ」
「もう、わかるでしょ。うーん、いや、やっぱり変わらないかも」
「どっちだよ」
「SはSのまま、大人になったってことだよ」
 彼女は笑ったままだった。しかし、気のせいかもしれないけれど、その表情は少しだけ寂しげな笑みにも見えた。あるいは俺の感情がそこに映っていただけかもしれない。月明かりの海辺で海亀が悲しんで見えるように。
「そうだといいけどね」
「うん。みんな変わっていくよ。どんどん大人になっていく」
 そう言って彼女は笑ったまま俯いた。俺はコーヒーを口に運ぶ。適温にまでぬるくなった夜色の液体は、俺の口内を苦味で満たした。少し顔を顰める。彼女はそんな俺を見て、「ほら、もうおじさんみたい」と悪戯っぽく呟いた。俺は照れ隠しに夜を啜った。

 そのまま俺たちは色んなことを話し合った。高校の友人のこと、先生のこと、お互いの大学生活のこと。それはとても穏やかで、素敵な時間だった。しかし俺たちは、当然ふたりとも覚えているはずの、あのときのことを話題に出すことはなかった。このふたりが出会えば必ず思い出すはずの、4年半前のことを。俺たちは見て見ぬ振りをし続けていた。蟻の隊列が大きな岩を避けて通るように。あるいは、会議室にいる象を無視し続けるように。窓に映った海には相変わらず強く雨が打ち付け、立つ白波だけが夜の闇にもよく見えた。

「へえ、Sは小説書くサークル入ってるんだ」
 Oさんは明るい声音でそう言った。俺も笑顔を向ける。
「イラスト描いてる人もいるけどね。俺は小説」
「でもSって高校のとき軽音部入ってなかったっけ? もう辞めたの?」
「いや、軽音も変わらずやってるよ。兼サーしてるんだ」
「ふうん。いいね。大学からも新しいこと始めて」
「あ、いや」
 思わず言葉を句切った。彼女は不思議そうにこちらを覗き見る。俺はもう中身のなくなったコップの底面を見つめながら、ひとつ息を吐いた。
「書いてた。高校の頃も。一作だけ」
「え、そうだっけ?」
「4年半、前に」
 彼女が息を止めた。そんな気配がした。俺は彼女の方を見ていられなかった。俯いた床には羽虫の暗い影が映っていた。
「どんな小説書いてたの」
「まぁいいでしょ。昔の話だ」
「違うよ。君にとってはそうでも、私にとっては違う」
「つまらない話だよ。蝉の話」
 あの頃。確実なものだと信じて疑わなかった、俺の内外の様々な物事が音を立てて崩れ始めた頃、近所の公園で孤独に鳴く一匹の寒蝉を見つけて、それをモチーフに書いた小説。俺が人生で初めて書いた小説だ。
「なんでSは、あの頃に、そんな話を書いたの」
「ねえ本当にもう――」
「教えて」
 俺は、全部を諦めるように天井を見上げた。電灯に羽虫がぶつかる度、それは鈍い音を立てて点滅を繰り返していた。
「俺はつまり、蝉の孤独な叫びを誰かに聞いてほしかったんだよ」
 馬鹿らしい、と今の俺は思う。それはおそらく倒錯にすぎない。ライ麦畑の捕手になりたい少年が、本当は誰かにつかまえてほしいように。あの小説はつまりそういったものだった。
 俺たちの間には再び濃密な沈黙が降りた。部屋の隅々まで隙間なく満たす、質量のある沈黙。そこには波音も羽音も入る余地はなかった。後者に至ってはただ虫が死んでしまっただけなのかもしれない、と今になって思う。
 すると彼女はにわかに立ち上がった。俺は彼女の顔を見上げる。セミロングの黒髪が流れた彼女の横顔はしかし、角度的によく見えなかった。
「ねえ、ちょっとだけ、外に出ようか」
 彼女はそう言って身体の向きを変え、出入り口へと足を向ける。俺も思わず腰を浮かした。
「まだ夜だよ。雨も降ってる」
「ホテルの前に出るだけだから。いいでしょ」
 彼女の歩みは止まらない。ドアの先には深い闇が広がっている。
「大浴場も閉まってる。風邪ひくよ」
 それでも彼女は、俺の制止も聞かず、ドアの向こうへと出てしまった。俺は、少しだけ躊躇ったあと、小さな溜息を吐いて彼女の後に続いた。
 彼女は、出入り口の階段を降りた先にあるホテルの駐車場に立っていた。傘も差さないまま。ぼうっと、分厚い雲に覆われた夜の空を見上げていた。全身が酷い嵐に濡れて、その髪は現実離れした艶やかな黒に染まっている。俺は、その吸引力のある黒に吸い寄せられるように彼女のもとに立った。俺も一瞬で、雨にずぶ濡れになってしまった。
「S、まだあの子と付き合ってるんだよね?」
 彼女は首を少し傾げてこちらを見た。白い頬に水滴が止めどなく流れていた。
「そう、だよ」
「だよね。インスタで見たもん」
「ねえ、もう戻ろう」
「どうして」
 彼女はそう呟いた。雨音に掻き消されそうなほど小さな声だった。でも、なぜだか耳にこびりついて離れなかった。俺が答えに窮しているうちに、彼女は虚ろな目のまま口の端だけ持ち上げた。
「Sさ、私にしない?」
 濡れた浴衣が身体に張り付いて、内側から冷えていく心地がする。
「どういう、ことだよ」
「すぐ遠回りしようとするのは君の悪い癖だね。どういうことも何も、そのままの意味」
「さっき言ったでしょ。俺にはあの子がいる」
「じゃあどうして、君はまだ小説なんて書いてるの?」
 言葉に詰まった。笑顔のままの彼女は、ちっとも楽しそうに見えなかった。
「私ならさ、私の全部を君にあげるよ。君のために何でもしてあげる。あのときも、4年半前も、そう言ったでしょ。君のダサいところも、嫌なところも、面倒くさいところも全部受け入れてあげる。辛い過去も、不安な未来も、ぜんぶ受け止めてあげる。君の心をまるごと引き受けてあげる。小説なんて書く必要がないくらい、君を幸せにしてあげる。だからさ、私にしてよ。そうして君は、私だけのものになる」
 俺は彼女の目を睨んだ。彼女は頬を水滴で濡らしながら、不敵な笑みを浮かべている。
「俺の幸せを勝手に定義するな。俺たちの関係を君が決めるなよ。あの子と君は違う」
「じゃああのときの君は、幸せだったの? あのとき、もし私の手を取っていたら、君は今よりもっと幸せになってたんじゃないの?」
 彼女のその言葉に、俺は思わず笑う。あまりにも彼女が正しすぎるものだから、まるで負け惜しみみたいに、笑う。
「ああ、そうだよ。当たり前だろ。あのときの選択が正しかったわけがない。あのときの俺が幸せだった訳がない。そのせいで俺の人生はずいぶん遠回りをすることになった。ずいぶん余計なものを背負い込むことになった。今でも思う。あのとき正しい選択をしていたら、俺はまっとうに幸せな、まっとうな人間になっていたんじゃないかって」
「なら」
「でも、もう昔の話なんだよ。失くしたものばかり綺麗に見えるだけなんだよ」
 遠くの星は明るく見える。褪せた思い出のセピア色は美しく見える。それだけなんだ、きっと。結局何を選んでも俺は、手の届かない綺麗なものの影を見ることになるのだろう。
「今ならまだ間に合うかもしれないよ。正しい選択肢を選び直せるかもしれない」
 違う、そうじゃない。でも、たぶんこれは彼女には伝わらない。だから。
「俺はね、あの子が好きなんだ。小説を書くのも。結局それが全部なんだ」
 だから、俺は嘯くしかない。そう思って出した言葉も、口に出してしまうとなんだか本心の言葉のように聞こえた。
 彼女は、そんな俺の言葉に一瞬大きく目を開いた。そしてすぐに表情を失い、俯いた。髪に隠れた彼女の顔から、水滴がひとつ落ちた。
「じゃあ私はどうしたら、君を自分のものにできたんだろうね」
 露のような声だった。俺がそれに返す言葉を見つける前に、彼女は顔を上げてこちらを見た。
「ねえ、私嘘吐いてたの。友達と来てたなんて嘘。本当はね、彼氏と来てた。Sだってそうでしょ?」
 彼女の切な表情が俺を捉えた。俺はそれを見ていられなかった。俺は、意図して口の片端を吊り上げて笑った。
「ああ、そうだよ。俺も本当は彼女と来てたんだ。君のために嘘吐いてあげてたんだけどさ」
 すると彼女は、「最低だね」と言ってホテルの中へと戻っていってしまった。小さくなって消えていく彼女の濡れた背中を眺めながら、俺はしばらくその場で立ち尽くしていた。数分経ってようやくホテルのロビーに戻ると、フロントにいた従業員の男性がタオルを持ってこちらに駆けてきた。心配そうな顔でそれを俺に差し出す。俺はようやく我に返った。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。先ほど、女性のお客様も同じように濡れたまま戻ってこられました。あのお客様と何かございましたか?」
 何か。何かか。いいや、彼女とは。
「何もなかったです」
 俺は作り笑いをした。とても自然な感情で。
「彼女とは、はじめから何もなかったんです」

 それから俺は替えの浴衣をもらって、部屋に戻った。そして未だに眠っている会員たちを起こさないように恐る恐るシャワーを浴びて、夜が明ける前にまた布団についた。2時間ほどの浅い睡眠だったが、もう夢を見ることはなかった。目を覚ますと、窓から眩しい朝の陽差しが差していることに気がついた。空は晴れていた。海も、昨日の大荒れが嘘のように穏やかな青色を湛えていた。そう、嘘のように。彼女に会ったことも、2人で濡れたことも、彼女の表情も、言葉も。

 結局、彼女は朝食会場にも姿を見せなかった。その日一日、俺は会員たちと小豆島を回っていたけれど、そのどこにも彼女の影は見えなかった。もしかしたら、あれは本当に全部夢だったのかもしれない。悪夢の延長戦。実際そう考えれば様々な偶然にも説明がつく。全部、元から存在しなかったんだ。死んだ羽虫も、濡れた浴衣も、女の子の涙も、ひとつの嘘も。だけど。
 俺は網膜に焼き付いた彼女の表情を思い出す。もしその記憶が偽物だったとしても、そこから生まれた感情までもが偽物というわけではない。俺は今後、雨の夜が来る度に、その感情のことを思い出すのだろう。

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