一杯の珈琲

何ヶ月ぶりに自分のために珈琲を淹れたのだろう。いや、何ヶ月は言いすぎかもしれない。でも、少なくとも一月半以上であるのは確かだ。

時間もないのだが、大方、心理的余裕の問題なのだ。それと睡眠時間。睡眠を優先したい時や或いは物理的に寝落ちしている場合に珈琲なんか飲んでいる場合ではあるまい。今日は一杯珈琲を淹れることができて飲むことができた。たかが一杯、だが、一杯の珈琲を淹れて飲むことができるということの意味するところはそんなに小さくはない。

一杯の珈琲といえば、ケストナーの本で「一杯の珈琲から」という小説があった。児童文学ではなく数少ないれっきとした大人向けの文学だが、1930年代の不穏な雰囲気も匂わせながらも小気味良い、「ちょっと皮肉っぽいラブコメ」みたいな感じの洒落た諧謔小説だった。これを読んだ頃に他にエッセイなんかもまとめて読んだのだが、子供の心を忘れていないちょっと皮肉屋のおじさんって感じで好きだった。大人の社会に対して舌出してそうな感じの。子供の心を忘れていないっていうのは、ピーターパン的夢想家っていうわけじゃなくて、子供にだって苦労があって社会があって大人が考えるほど子供時代って甘くないんだぜしょっぱいんだぜみんな都合よく忘れてんだろ、みたいな。好き。

一杯のカフェラテ、いや、エスプレッソじゃないからカフェオレか。Caffe LatteとCafe au lait。イタリア語とフランス語。また語学もやりたい、子供が勉強する年頃になったらその傍らででも。そういえば、子供の学校についてなにやら調べたらしい夫が「xxに入れといて!」とさも簡単なことのように言っていた。そりゃ簡単に入れるものならあそこには誰だって入れたいでしょうけどねえ、、。それはともかく、お勉強は好きであれば何でもいいのだ。好きなら勝手にやって大人になるまでには勝手に伸びて帳尻が合うと思うのだが。勝手にやっといてもらって自分もそばで色々広げて勉強したい。フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、楽典、自然科学全般、といいつつ多分実際にはそこまで続かないんだろうが。

お喋りが過ぎた。書類仕事にかかるまえに珈琲が尽きてしまった。これ以上眠れなくなると困るから、お代わりは無しだ。


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