いつのまにか ぼくらは -09 to 19-

2009年に原型である「いつのまにか ぼくらは」という詩を書きました。
それから10年ちょっと過ぎて、継ぎ足したい言葉が増えてしまったので「10 years after」を追記しました。
何気なく使えていた「絆」という言葉が、2011年の東日本大震災を機に頻繁に多く使われ出してきて、時が経つに連れてその言葉の意味がだんだん希薄化していくなぁと感じて、10年ちょっと後の夏の日に今現在置かれている状況の言葉を継ぎ足しました。
「絆」の部分を削除せず継ぎ足しにしたのは、あの頃と今とでは「絆」という言葉の意味が違っているのではと思ったからです。

書いた日:2009/2/15

いつのまにか ぼくらは
我慢することが 多くなって 
本音を言えば 叩かれて 
黙ってたら 爆発しそうになって 
慣れることは 怖いことだな 
不穏な空気が 流れることも 
いつのまにか ぼくらは 
我慢することで 過ぎていってしまった 

いつのまにか ぼくらは 
こだわることが 多くなって 
強くないのに 無理をして 
弱いのに 大丈夫と言ってしまう 
目の前の 差し伸べる手を 
振り払い かなえようとして 
いつのまにか ぼくらは 
こだわることで 過ぎていってしまった 

いつのまにか ぼくらは 
ケンカすることが 少なくなって 
遠慮して 窺って 
探り合い ぶつけられずにいるから 
面と向かい 目を合わせて 
言いたいこと 吐き出せないで 
いつのまにか ぼくらは 
ケンカもせずに 過ぎていってしまった 

いつのまにか ぼくらは 
忘れることが 多くなって 
ありがとうと 言うことも 
気付かぬ間に 支えられていることも 
当たり前に なってしまった 
おざなりに なってしまった 
いつのまにか ぼくらは 
忘れることで 過ぎていってしまった 

凝り固まっていた 気持ちが 
引っ掛かっていた 誤解が 
壁を作っていた 強がりが 
解けて壊れてゆく日を 
晴れて崩れてゆく日を 
どんな喧騒の中でも 待ち望む 

いつのまにか ぼくらは 
絆という 糸で結ばれ 
毎日が なんとなく 
過ぎ去って いったわけじゃないことを 
何かあるたび 思い出すんだ 
何があっても 分かり合うことを 
いつのまにか ぼくらは 
絆の糸で 結ばれていたんだ

【追記】
ー10 years afterー

あの頃は絆という言葉を多く使えていたけれど
頻繁に使われすぎて今はその言葉の価値さえ失われている
裸の王様に盲信的に熱狂するよりも
弱い者のために政治や法律があると強く言う人の言葉を信じる
「あの頃は良かった」と懐古主義に走って妄想を言うよりも
8時間働けばふつうに生活できるようになることがあたりまえになる今を望む
「生産性が無い」「政治参加は難しい」とマイノリティを黙らせるよりも
そう言われた怒りが決して無駄になることのない社会があるように望む
「お前はひとりで死ね」という言葉がはびこらないでほしいから
犯罪者が犯罪者にならないような基盤が整備されるように願う
「お前の努力が足りないからだ!」と蔑む人間になりたくないから
せめて誰もが常日頃から「健康で文化的な最低限度の生活」以上の生活ができるように願う

いつのまにかぼくらは
毒されてしまった世界と対峙しなければならなくなった
いつのまにかぼくらは
薄汚い世の中の静寂に漂うことになってしまった

空気を読むってなんですか
そんなことをするから人は黙り右に倣うのではないですか
NOと言えなくなる世界ほど息苦しいものはありません
口を塞ぐ人や首を絞める人が僕の隣に居ると思うと怖いです

だから生きていくのです
自分の言葉でちゃんと意思表示ができるのだから
これは違うだろうと思えばNOと言っていい世の中のほうが健全だ
口を塞ぐ手を剥がして首を絞めようとする両手を解いて
生きていくのです

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