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自死遺族をそっとしておくことは健全な策か

前回の記事で、性に関して加害と被害の関係から、男性視点で起き得る問題を指摘した。

性を加害被害の関係でしか捉えられてこなかった自分は、性における加害をしない自分は称賛に値する何かを得られるという勘違いをしており、いつも一位でゴールしているのに賞状がいつももらえないマラソン選手のような気持ちになっていた。

これは性に関して述べたものだったが、しかし自分の研究分野である自死に関しても似たようなことが言えることに気が付いた。つまり自分の主張である「自死を決して自己責任論で片づけない」という信念は、「自死遺族と故人を加害しないということ」そのものではないだろうか。この信念は、いったい誰の役に立つのだろう。

自死の自己責任

自死は自己責任に問われるべきではない。この主張だけは未来永劫、自分の中で変わることはないだろう。だいたい「自分の意志で死んだ」みたいなことを外野から指摘できる人間はだいたい自死に関して無知だし、体の中の様々な神経物質の伝達の仕組みを知ってそんなことが言えるのだとしたら甚だ傲慢だ。自死の自己責任に関しては過去にも多く触れている。

自死を自己責任に問わないということは、つまり、亡くなったのは自分の意志ではどうしようもない不可避な現象が働いたからだと主張することである。しかしこれが意味するのは、自死した本人に罪はないと認める側面のほかに、自死に及ぶほどの感情を自身で復活させることへの諦念を認める側面があるのではないだろうか。

昨日書いた性の記事において指摘した点を振り返ろう。


セックスによる加害をしない事=女性を楽しませる機会をなくすこと
「今日はダメ」という女性は、Noの意思表示をしつつそれでも強引に押し倒してほしいと思っている可能性と本当にNoのサインを出している可能性の二つがある。加害をしないことに最も重点を置くなら手を出さないべきだが、前者だった場合に女性を楽しませられる可能性をも放棄することになる。もちろんNoのサインを女性が出した際にその時のムードなどの総合的な状況を判断して男性は決断するわけだが、この男性の決断が上手くいく保証はどこにもないし、女性関係に疎い男性ほどこの判断は誤りやすい。

これより、性をテーマに女性を加害してこなかった自分は偉いことをしているわけでも何でもないということに気付かされたわけだ。モテる人とは、結局このリスクの取り方が上手い人ということになる。

ではこれを、自死の自己責任に置き換えるとどうなるだろうか。

自死を自己責任に問わない事=故人の自死は仕方なかった(遺族にできることはなかった)と諦めること
故人の自死を「勝手に死んだのだから自分の責任だ」などと言ったり、自死遺族に「亡くなった人の分まで生きなきゃ」などと言うのは明らかに不躾だが、自死した故人やその遺族の心は急に突然変わることなどないと認めてしまうこと(つまり心の自由の幻想を放棄すること)は、第三者の声掛けにより元気が出る可能性をも放棄することになる。自死遺族とコミュニケーションをとるときに些細な言葉が失礼に値する可能性があり、それを防ぐためには一切の口をつぐむことになるが、それでは第三者による早急な心的援助の未来は消える。

言葉足らずでうまく言えていない気がするが、

「あの人は今とてつもなく辛い。全く立場の違う僕の言葉でどうにかなる話ではないからそっとしておこう」

という一切の加害を生みようのない行動は、他者の元気づけによる快復を放棄してもいる、ということだ。

セックスにおいても自死においても、関わらないで欲しいと思っている人の方が圧倒的に多いのは事実だろう。Noという女性がそれでも押し倒してほしいと思っていることは稀だろうし、今は自分に関わらないでくれと頼む自死遺族が「本当はそれでも何か言葉をかけて元気出させてほしいのに」と思っていることはほぼ皆無なはずだ。

しかし皮肉なのは、その稀な状況に手を出せる人間が称賛に価してしまうという現実なのである。女性の表面上のNoを見破って手が出せる男性は女性を分かっているという称号のもとモテるだろうし、たまたま何かの言葉で自死遺族の気持ちが回復した時に、そこで言葉をかけた人は窮地の心を救った人として周りから一目おかれる。だからそれを真似しようと周りの人間も同じようなことをするわけだが、非モテの人間が気持ち悪いアプローチを女性にしてしまったり、何も知らない人間が馬鹿みたいな励ましを遺族にしてしまうから、そこで加害被害の関係が生まれる。

例えるなら、1%で成功するが99%で失敗するゲームがあったとき、失敗しない道を選ぶならこのゲームに参加しないことが最善策だが、その道を全員が選ぶと1%の成功事例がこの世から消える。しかしリスクを取ってこのゲームに参加すると、99%で失敗が待っているから、誰かしらは失敗して誰かを不愉快にする。

どんなに真面目に勉強をして医師資格を取った精神科医ですら、患者との相性を毎回議論され、その全員を一切不愉快にさせない行為を期待することは難しい。精神科医やカウンセラーは、(その多くが)ある程度の知識と資格を持ったうえで我々の手が出せないゲームに参加してくれている誠実な人たちだ。その人たちであっても、1%の成功だけを抽出するのは不可能だ。

僕のように、自死を自己責任に問わず、自死遺族に対しての無作為な励ましは無意味であり失礼だと主張する人は、自死に関わった人であればあるほど多いはずだ。

では、この世の全員がこう主張する人になってしまったら、世界はどうなるだろう。それはリスクを取らぬためにと励まし合いの消える世界であり、その世界は本当に健全なのだろうか。

誰もがコミュニケーションをとりながら、不愉快にさせてしまった時にはそれを後悔し反省しながら生きている。自分ももちろんその例外ではない。今思えば恥ずかしい過去の自分の行為も、それを是正して許してくれた人間のおかげで今の自分がいる。

なのに、「心はそんなすぐには変わらない」「自死は自己責任ではない」「遺族に無知の民が関わるな」と自分が言ってしまうことは許されていいのだろうかという罪悪感に襲われることがたまにある。自死を感じたことのある辛い人間だという事実を盾にして一切加害のない世界に身を潜めることは、個人の選択として尊重されるべき、妨害などはされないべきではあっても、決して褒められるようなことではないのではないだろうか。

自分が辛い思いを感じてきた原因は、ここにあるような気がしている。

もっと自死を分かってくれ、土足で我々の領域に踏み込むな、そうした自分の気持ちは「少なくとも多くの人間よりは遺族感情を理解しているもの」として賞賛に値すると心の底では思っていたのではないだろうか。だからずかずかと他人の事情に入りこんで来る人間に嫌気がさしたし、孤独感が絶えなかった。

しかし違ったのだと思う。加害のない世界へと身を潜めることは、遺族感情を理解できているとしても、万人に認められ称賛に値するべき事由ではなかった。万人に認められたくて今まで主張を続けていたわけではないが、しかし遺族側の主張をこの世の全員が理解できればもっとこの世は幸せになるくらいのことは思っていたのかもしれない。99%で失敗の待つゲームに参加するのをやめろと主張することが万人にとって良い結果をもたらすということを疑ってこられなかったのは、自分の浅はかさかもしれない。

この視点に気が付けたのは自分の中でもかなり大きい。それでも遺族に関して99%のゲームに参加しないべきだということを、今後も僕は訴え続けると思うが、それによりこの世は幸せにあるとか、全員僕のような思想に至ればいいなんていうさらさら傲慢な考えは、この機に捨てようと思う。

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