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中山洋孝『フェイクシェルター』覚書 イメージの氾濫に向けられた無防備な機械

    はじめに

 この記事は茶会記play-act vol.12にて上映された、中山洋孝さんの短編映画『フェイクシェルター』について個人的な考えを巡らせたものになる。
(以降の文章は内容の性質上、敬称を省かせていただきます。予めご了承ください)

中山洋孝『フェイクシェルター』より

    『フェイクシェルター』覚書

 中山洋孝の『フェイクシェルター』は上映後のトークショーの際、今まで茶会記play-actの主催である上田晃之氏にお世話になってきたこと、そして過去の撮影の中で被写体として上田と向き合った時に何かカメラを向ける気を無くしてしまうような感覚があったこと(中山のことだから本気で言ってるのかどうかは分からない)、それらを踏まえた上で今回の映画を制作したと語っていた。

 最初のカットはどこかしらの部屋の扉を映し出している。扉を認識できたのも束の間、カメラがパンすると、上田の顔がクローズアップで映し出され、テキストを読み上げはじめる。一文毎に本から目をあげて、それが三度繰り返される。このクローズアップの映像からズームアウトすると、先程の部屋の扉の映像と結合する。部屋の扉はそれ自体が上田のいる空間の出口ではなく、廊下を挟んだ別の部屋の入り口としての扉だったということが示され、反転の印象がもたされる。同時にその場所がどこかの公民館の一室であることが明かされる。更に同じカットのままズームアウトすると、鏡越しに上田を撮影していたことが明かされ、ほとんど騙し絵に近い揺らぎを感じる。鏡という額縁が出現することで、同時に絵画的なフレームを想起させる。カットが切り替わり、黒いコートを着て帽子を被った上田が入り口から再登場する。それらの衣装は外行の格好のようにも見える。椅子に座り直し「潜在的なものを直接的なものに、現在を未来に、現実を夢に結合させるこの遠近法を『おぉ、神の如き遠近法!』と叫んだのだ」というテキストが読み上げられ、テキストを朗読するという行為それ自体も内包しながら、この映画の中での企てを示しているように思える。

 この場面が異様なのはズームインとズームアウトを繰り返すことで、映像自体が音声とともに歪み、映画自体が平面空間をディストーションするような破壊的な印象をもたらしていることだろう。そしてそれはズームカメラを用いることによって生まれている騙し絵性が、かつて存在していた古典絵画の平面的な遠近法の騙し絵的性質を、構図としてもテキストを朗読することによっても踏まえつつ、映画空間の中で立体的に超越していくという構造が存在している。
 しかし、観客はそれらの構造を読み取るよりも先にほとんど暴力的と言っていいほどのズームインとズームアウトの往還、それらがもたらす騙し絵的なイメージの揺らぎ、上田の朗読している声に耳を傾けようとしつつも、マイクが拾い上げている音それ自体が収縮し、拡散していく質感に取り込まれていく。
 場面が切り替わり、雨が降り出している河川敷で傘を差しながら朗読を続ける黒いスーツを着た上田の姿が映し出される。傘に雨が降り荒む音、川が流れる音、マイクに風が吹きつけることで生まれる雑音、朗読され続けるテキスト…混沌とした音が遠近性をより曖昧にし、渾然一体となって、その中でも映像はほとんど壊れたラジオのように語り続ける上田の姿を捉えている。この部分は公民館の場面を超えて更に異様だ。ほとんどワンカット15分前後の映像の中でグルグルと上田の周りを移動して、その最中で河川に降り立つ鳥を見つけたと思えば、先程の遠近法的構図を上田と背景の河川を対象として映し出したり、朗読されているテキストの内容が上田と重なったり、対立して聞こえたりする中、結局河川にしゃがみこむ上田そのものの絵自体の印象が強まって見えたりする。この場面で興味深いのは、中山の意識の流れそのものが手持ち撮影という手法によって表出しているように思えることだ。
 私たちが何かを見たり聞いたりする時、雑多な情報として目や耳で捉えられるものの中から意識上に浮かびあげるものを選択して、それを一つの見る、もしくは聞くという行為として定義することができる。そして映画というものも同様に、カメラというほとんど乱暴に雑多な情報を記録してしまう機械を挟み、いくつかの要素を選び取ることでカメラの持つ乱暴さを抑制し、作り手が見せたいものの姿に寄せて映像を作ることがほとんどなはずである。これらの過程は具体的に述べるなら、撮影の前段階で役者の演出、構図の選択、撮影の後段階ではカットの編集による尺感の調整、音量の調整などによって行われていく。
 しかし、この場面はそれらの情報の抑制がカットを切ることによっても、演出が細かになされることによって行われることもない。音声や色味の調整が軽くなされている可能性はあるが、観客には凄まじいまでの剥き出しの印象を与えながら、ただ撮影中カメラのズームレンズを通して対象や構図を探り続けるという行為の中、15分間中山自身の意識を映しつづけているかのように思える形で映画にしていることにある。

 剥き出しの映像は、時折挟まれる公民館の場面のようなズームイン、ズームアウトの往還によって、平面的に見える絵そのものが現実の立体空間の中に存在しているのだという遠近性を映像的に示し、当初の企てを試みようとしているようにも思える。しかし同時に、本来接続されるはずのないもの同士を繋ぎ合わせようとすること自体の危うさが、屋外の無軌道な時間と空間に放り出されてしまうことで垣間見え、代わりに現実そのものに対峙せざるを得なくなっているような印象を強める。
 統制された情報に慣れきった我々の意識はそんな屋外の映像と音の中で揺さぶられ続ける。吹き荒む雨風はカメラとそれに付属しているマイクという、あらゆるものを拾い上げてしまう無防備な機械の存在さえも顕在化させ、作り手が選択しているのかしていないのか、不明瞭で曖昧な危うさを伴いながら映画は進行していく。しかし、断片的に観客は中山の意識と自身の意識がカメラを通してシンクロしているかのように思える瞬間がある。川の音の向こう側から聞こえる上田の台詞の一片が頭に残ったり、一見何を探っているか分からないカメラワークの中で切り取ってしまう河川敷の光景の奇妙な発見の瞬間である。

 中山がカメラを向ける気を無くしてしまう上田に対して、それでも向き合ってみようという意志が働き、テキストを通じて平面と立体、過去と現在、そして未来へと接続しようと探究する過程で流れているあの時間は、屋外に移動することで、何にもならない無に帰する可能性すら秘めている賭けのような曖昧さに委ねられていることが浮き彫りになっているようにも思える。しかしそれこそがこの映画の限界状況を作り出していて、その状況によって自ずと映画そのものの本質を露呈しているのではないだろうか。それは自分が企てている何かを撮ろうとする時、現実世界に流れる偶発的なイメージの氾濫に向き合わざるを得ない宿命と、先述したカメラの特性により、無に帰する可能性を常に秘めているという宙吊りの状態から逃れられないということである。

 現実のイメージの氾濫に向けられた無防備なカメラは、観客をあの雨風が吹きつける河川敷に否応なく連れ出す。途中から繰り返し上田の差しているビニール傘が奇妙な人工性をちらつかせながら映し出され、同時に雨風を凌ぐものとしての寄る辺なさが際立つ。それは公民館の屋内の場面と対比され、まさしく映画というもの自体があらゆる選択や統制によって守られているものでしかない『フェイクシェルター』であり、常にフレーム外の世界の雑音と制御不能なものに満ちた現実の中にあるということを示しているのではないだろうか。そしてそのモチーフの発見の時間と当初の企てが、成功したのか確信できぬうちに、朗読をしていた上田のある一言をきっかけにこのカットは唐突に打ち切られる。

「ダメだ、おしっこしたい」

 川のカットが1カット挟まれて再び、また別の川のカットが映し出される。それまで記録されていた雨とビニール傘、上田は消えて、背景になっていた川が完全に撮影の対象になって反転する。平面的な遠近法の美しさを保った構図の中、再び電車の通過する音がフレーム外に流れ終えてから、排尿音が聞こえはじめ、前の場面とは異なる奇妙に穏やかな時間が流れていく。それらが編集によるものなのか、上田がそこにいるのか、中山の呆れがあるのかは分からない。電車が走るという映画における原初的な音が聞こえ始め、雨も尿もすべて川に流されていくことで散り散りになっていた断片が繋ぎ合わされ、映画自体が始まり直したような感覚がもたらされる。
 再び川のカットがいくつか挟まれていき、最後に中山がこれまでの作品で繰り返し撮影していた黒猫が河川敷を歩くカットに切り替わり、川を跨いだ橋の上を電車が通りすぎていく。再び立ち現れるノイズ音の中、黒猫は橋の影になっている部分を掘り起こしていく。まるであの河川敷の15分間、過去のテキストを通した中山の探求そのものが、上田さんと黒猫の姿を重ね合わせることで、屋外で再び遠近法的に立ち現れているように思える。奇跡的とも思える時間は一瞬のうちに消え去り、猫が画面の奥の方に消えていく。その中で川の反対側に制服を着た女子高生が歩いているのが見える。中山は次の作品で再び女性を撮ることになるのではないだろうかと思った。

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