朝顔の花冠
いつも死を思えば朝顔の花冠
1週間ほど家を空けてのち帰宅した翌朝、
双葉も本葉もなしにひょろりんと伸びた
蔓に今季いちばんの朝顔が咲きました。
引っ越した娘が今年の3月まで住んでいた奈良大和郡山の佐保川のそば、「の山にいでし月かも」と続けたくなるメゾン三笠の、北東には若草山を臨むアパートのベランダで咲いていた朝顔です。
娘は当時の職場の先輩から「咲いてのお楽しみ」と、どんな朝顔かを知らされず貰った種をプランターに植え、帰宅が夜の9時、10時、それより遅くなってもなんとか水やりを続けていると、この朝顔、「江戸風情」が咲いたよ、とLINEで写真が送られてきたのは一昨年。
その花姿に惚れ込み、昨年、娘から種を貰い受け、昨年の夏にはその雅で粋な姿を家のベランダでも愛でました。
さて今年。その窓からの大和の風景を愛し、季節折々の川の端の散歩を楽しんだ大和郡山のアパートを引き払った娘は、3月に伴侶となる男性とのとも暮らしをはじめました。
わたしはといえば、今年は朝顔を植えることなどまだ微塵も頭になく、その日一日をぱたぱたと暮らし、翌朝覚醒めたならまたぱたぱたと、を繰り返していました。
先週から家を空けて1週間。おととい夕方に帰宅した瞬間からふたたびぱたぱたははじまり、いつものことですが、荷物を置けば台所で晩ごはんの用意に取りかかる。そんなスイッチの切り替えを負担に思えば心乱るるので、淡淡粛粛とこなせる程には鍛錬を重ね?!シュフというものもやってきました。
ほんとうはご飯を作るとか銀行に行かねばとかとかとかのフツーのクラシなどどうでもよくて、霞を食し、ただただことばを紡いだり文化芸術に触れたり旅をしたり逢いたい人だけに会ったりの非現実の中を生きていたい自身をいつも自身の内に飼っているのですが、そことは乖離してある意味しぶしぶと続けるクラシなるものにふと愛着が湧くことはあるのです。
帰宅した翌朝。ベランダに出ると植えた覚えのない江戸風情がたった一輪咲いていました。
こぼれ種から咲いたこのうつくしい一輪に、ようこそ此処におかえり、と云ってもらったようで、たとえばこんな一瞬がわたしをクラシというものにつなぎ留めているのだな、と花冠に見入ったのでした。
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