見出し画像

真綿で首を絞める。

生きていくうえで、他者との交流は必要不可欠なことである、という事実は真綿で首を絞められるような感覚さえある。たったひとりですべてを完結することが出来るのならば、きっと、畑を耕し湧水を汲み、小鳥の囀りに耳を傾け、花や木々が枯れる事で季節を感じ、静かな夕暮れに包まれながら眠りについていたんじゃないかな。と思う。

けれど、便利という誘惑に魂を売ってしまった以上、それらを手放すことは脅威でもあって、こうして文章をつくる為のスマホや、暗闇を照らす照明、楽に長距離を移動する手段やあれやコレが無ければ死んでしまう、とさえ思い込んでしまっている。

故に、この便利さが無くなってしまえ!なんてことは微塵も思っていなくて、本屋や喫茶店や服屋などで提供されるちいさな幸せが無ければきっと僕は闇雲に人生を放棄してしまうだろう。

だからこそ、他人との関わり合いが必要不可欠な状態をつくりだしている。それは誰の所為せいでもないし、むしろ人類が自然と闘うためには至極当然な進化であったとも思うし、他人と力を合わせながらつくりあげられた文化なのだから。

なので、すべての他人と関わることに悲観しているわけじゃない。意見の合わない人と不毛なやりとりをするのが苦手なわけでもない。ただ、なんとなく、誰かと関わり続けながら生きていかないといけない、と思うことで余計な心配をしたり、小さな嘘をつくことが苦しい。

この小さな嘘、が真綿の縄となって首にまとわりついている。

嘘なんかつかないほうが良い。自分の言いたいことは包み隠さずに言って、それで周囲が振り回されていたとしても気にせずゴーイングマイウェイ!人生薔薇色!嘘つかない人生ハッピー!、、、なんてことが簡単に出来るわけない。それが許されている人がいたとしても、そのひとは他人の嘘で守られている。なんでもズバズバ言ってくるひとに自分の本心を伝えれば、きっと傷つけられるのだから、本心など伝えられやしない。それに、嘘つきません、でマウント取ってくるひとは、もっと嘘つきだ。何よりも自分に嘘をつきながら生きている。思ったことを言わないといけない、という嘘。

思っていることを全部つたえたらそのひとが傷つくかもしれない、仕事がうまく回らなくなるかもしれない、そんなことは誰しもが思いつくはずだし、それに翻弄される姿を見てなにも感じないのは嘘だ。けれどその感情には蓋をしてしまうのだから、自分を騙している。

結局のところ、嘘などつかない人間はいない。だから、メンヘラとか、HSPとか言われるひとは辛いのさ。他人を想いやるばかりに自分を傷つけてしまう。そんなの間違いだけれど、表面化する間違いにはならないから、大変な世の中だ。

だけどさ、そんな自分を否定してしまうことは、もっともっと大きな嘘。生き辛くたって、生きていてはいけないなんて誰が言ったのさ。多分それは自分が自分へと投げかけている嘘。この人生は義務ではない。だから、どう生きるかを自分に問いかけて、真実をみつけなければいけない。自分にしかない事実を。

他人との関わりが必要であるからこそ、その関わり方はとても重要なのだろうな、と思う。そして、真綿で首を絞めているのは、自分自身であることも。たとえそれが解けることはなくても、緩めることはできる。その力加減が他人との距離感だ。

田畑を耕し湧水を汲み、小鳥の囀りに耳を傾け、花や木々が枯れることで季節を感じ、静かな夕暮れに包まれながら眠りにつく。その環境のなかで、自分の首を絞める必要があるだろうか。

想像してみるのもいいかもね。なにが首にまとわりついているのかを。

僕はこれを書きながら、自然と緩んでいきました。
方法はひとそれぞれです。

では、良い人生を。敬具




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?