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無限という公理

イギリス経験論の哲学者デビッド・ヒュームは絶対的知識は数学のみにしかなく、物理学などの実験科学の知見は蓋然的(probableな)知識であると指摘した。物理学を始めとする科学一般の概念あるいは観念とは、感覚器官を通して生じる印象から作られたものであり、感覚器官から得られる情報の絶対性を担保するものが何もないと言ったような議論だった気がする。例えば地球は平坦ではなく球体に近い事を論理だけで証明する事は出来ない。それ以前に地球というものが存在している事すら、論理的に証明するのは不可能である。一般には測定装置を用いた実験によって検証するのだが、装置の測定結果を読んだり判定したりするのが、結局人間の感覚器官を通してしか出来ないのである。実験による実証とはつまるところ再現性の問題に他ならなない。再現性が高ければ確からしいとされ、追試出来なければ科学的事実ではないという事になる。

数学の公理から導かかれた公式や定理を使って、公理自身の正しさを証明する事は出来ない、というのがゲーデルの不完全性定理の大枠だと思う。つまり数学の知識の中でも公理に関するものは、それが正しいという事を前提にして議論が進められている。例えば平行な直線は交わらないという公理(大前提のルール)を基礎としてユークリッド幾何学は成立しているが、平行な直線が交わらない事を幾何学的に証明する事は出来ない。現に平行線が交わる例としてそれまでの幾何学を拡張した非ユークリッド幾何学が発見されている。従って数学も公理に関しては絶対的知識ではないので、その点でヒュームは間違っていた。勿論それが分かるのは彼の時代から100年も後の話だが。

ジュリアの音信という1890年代の自動書記による霊界通信のオーディオブックを聴いた。その中に、死後の世界に関する1つの興味深い記述があった。人間の魂は例えて言うなら車輪を構成する1本のスポークである。複数のスポークを束ねるハブは守護霊あるいは大いなる自我である。転生とはこの魂(1本のスポーク)を現世という業火に曝して焼入れする鍛錬の過程である。また1つの車輪はより大きな自我にとっての1本のスポークとなる。このような仕方で霊界は無限とも言える階層構造を成している。霊界の魂は木構造を成していて、大元を辿れば人間も宇宙という巨大な1つの魂に、その一部としてぶら下がっているという事が分かる。この巨大な生命は階層が低い程進化が遅く、高い階層に上がるために顕現界での経験を必要とする。

この説明を聴いて何か違和感を感じた。この生命進化にはエンドポイントがないと。ゼータ関数は円周率という無限から素数や自然数の集合を取り出すラグランジアンであるという理解をしている。保型形式の1例であるアイゼンシュタイン級数のフーリエ展開にはゼータ関数が登場する。保型形式は楕円曲線(トーラス)のモジュライ空間上の正則関数である。弦の構造はトーラスである。また(係数がp進数である場合の)楕円曲線上の有理点はリー群を成す。従って円周率という無限からゼータ関数によって素数が生み出されるが如く、ゼータ関数は保型形式や楕円曲線と繋がっている。楕円曲線は弦の構造になっていたり、場の量子論の基礎となるリー群を生成する。ディラック方程式まで来ればその後は全て半整数スピンの素粒子、即ち物質の世界である。つまり円周率という無限から幾重にも渡る階層を経て物質界が顕現され、それらの中間のラグランジアンによって霊界・幽界も規定されているのだろう。これらは全て無限から有限を顕現させる(無限を有限値に収束させる)ラグランジアンである。そして顕現界は有限であるものの、顕現そのものは有限ではない。木構造は無限に子ノードを生成すると考えられるからだ。有限なものを無限に顕現する事は、無限そのものと等価である。顕現を時間的発展として捉えると、その瞬間に時間軸は無限へと発散してしまう。有限なものは全て幻想であり、実在ではない。我々が非幻想的実在を捉えようと思ったら、顕現界の進化を無限時間まで演繹するしかない。それでも難しいとは思うが。まあ少なくとも霊界や幽界も物質界と同様にそれらを生成する数学的規則が存在する訳で、それらの構造を良く理解する事は瞑想や観想、あるいはマントラの解読に役立つかも知れない。

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