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すべてのはじまりはトマトソース

 くつくつ、こぽこぽ。ふたをずらした鍋からときおり聞こえるオノマトペ。あたしは木べらでぐるぐるっと鍋底からかき混ぜる。ふわんといい香り。あともう少しこのまま。10分のタイマーをかける。あと10分でうちのトマトソースのできあがり。

* * *

 あたしは定期的にトマトソースを作る。たくさん作ってあれやこれやと美味しく食べる。パスタもたまごもお肉もごはんもなんでも相性バツグン。あの赤を見て美味しいを想像しない人なんているのかな。

 包丁の腹に体重をかけてどんっとつぶしたにんにくからパッと香る青さ。割れたジューシーなにんにくをパラリと鍋底において、そこにとくとくとくっとオリーブオイルをたっぷりそそいで火にかける。しばらくするとしゅわしゅわとにんにくが泡立ち始める。そのときのあのしあわせな香り!

 小さくカットしたたまねぎとセロリを、じゅわじゅわと泡立っているにんにくとオリーブオイルのなかにほおりこんで木べらでザクザクと炒めるのが好きだ。木べらから伝わる食材がしんなりしてくる感じ。油と野菜の水分が混ざり合うのを見るのも好き。

 そこにトマト!つやつやぴかぴかな真夏のフレッシュトマトを使うのもいいし、ホール缶やダイス缶、大量のプチトマトを使ってもいい。それぞれの良さを味わうためにどれを使うかはそのときの気分。とにかくトマトソースはとことん自由なのだ。

* * *

 一人暮らしをはじめるまで自分で料理するなんてあたしの世界に関係ないと思ってた。料理を作ることはできてもなんのこだわりもなかったし、道具もとりあえず、と用意した安いフライパンと小鍋しか持ってなかった。切って焼くだけの簡単なものも当時のあたしには相当な気合いを入れなきゃできない大変な作業だった。

 今、あたしはまいにちお料理する。鍋だけでもパッと頭に浮かんだスタメンは6個。もちろん食べることが好きだし、好きな味に作ることがうれしい。好きが講じてフードコーディネーターの資格も勉強して手にした。あんなにお料理に無頓着だったこのあたしが。

 きっかけは友だち。彼女の家に遊びに行ったとき、コンロにガラスの鍋があってその中に赤いなにかが入ってた。あたしは気にも留めず彼女と近況を話したりしていたら、急に彼女が立ち上がって鍋の火を止めた。
 「今、トマトソース作ってて‥」
そう言いながらガチャガチャっと鍋の中をレードルで混ぜて続けた。
 「作っておくといろいろと便利なんだよね」
ガラスの鍋を少し離れたところから見て「へぇ」と言ったあたしはきっと間の抜けた顔してただろうな。

 家に帰ったその夜、ぼんやり彼女のトマトソースの鍋を思い返していた。あの夜のあの部屋の空気、今でも思い出せる。自分で作る、ってどんな感じ?彼女にできるならあたしもできるんじゃ‥?

 同じ月のある週末、あたしは台所に真面目に立っていた。そこにはあのときの彼女のトマトソースに動かされてるあたしがいた。本屋さんで気に入った本を1冊買って。レシピ通りの材料を買い込んで。いざ!

 初めて本気で作ったお料理、トマトソース。そのできたてのトマトソースと時間通りに茹でたスパゲッティーニでポモドーロを作った。トマトソースのレシピは本当に基本のレシピ。にんにくたまねぎホールトマトに塩とオリーブオイルだけ。そんなシンプルで簡単なのになんでこんなに美味しいの!?しかも初めて作ったのにマジでうまい!やばいお料理って楽しいかも!マンマ・ミーア!

 なにごとも最初が肝心とはよく言ったものだ。はじめに間違ってしまうとあとあと大変なことになるけど、最初の体験が楽しければその行為に「楽しい」が刷り込まれてきっとずっと楽しいが続く。

うん、あたし、今もお料理楽しい。

 思えばあのトマトソースがあたしの食の目覚め・幕開けだったんだなあ。初めて自分で作ったトマトソースで、初めて自分で作ったポモドーロをほっぺたいっぱいにもぐもぐしたあの日。

 「作っておくといろいろと便利なんだよね」

 あれからあたしはお料理をするひとになった。あのときの彼女のセリフのその意味も、今では間の抜けた顔なんてしないでおなかのそこからうなづける。すべてのはじまりのあの境界線を、あのとき跳ねるように越えたあたし。跳んでよかったって、今、笑って思った。

そんな、お料理をするこちら側に来たあたしは今日もお料理にいそしむ。「おいしい」を「たのしむ」ために。

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