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LLMで壁を越える。 (序-3)

読むのが めんどくさい/気合いの必要な 文章 と いうものがあります。

(主張が散漫などで) 要点が得にくかったり、
(冗長な表現などで) やたら文章が長かったり、
(名詞/形容部位などに) 独特の表現があって イメージしきれなかったり、
(質問意図や 回答範囲の設定があまく) 論点がぼやけていたり、
意味の解釈が多義的で 意図が読めなかったり…

様々な理由で 読みにくい文章があります。
まぁ、受験の時などは そういった文章に 一定のニーズもあるかようですが

個人的には、短く/読みやすく/悩みにくい 文章の方が嬉しいですね。

さて、今回は そういった 文章を いかに LLM が処理できるかをみていきたいと思います。

小林 秀雄 を 読ませてみる。

昭和の入試では 現代文の問題としてお世話になることの多かった 小林秀雄さんですが、とにかく難解な文章が特徴で、試験中に読み込みが必要で 頭が痛くなった 記憶があります。

実際、2013年の センター試験 "国語" で 出題されたところ

なかなかの平均点を叩き出したようですし、せっかくなので今回は この
小林秀雄「鍔」
で様子を見たいと思います。

まず、Bard に 概要を尋ねます。

小林秀雄の「鍔」の内容を 200文字で要約してください。

小林秀雄の「鍔」は、鐔の美しさについて論じたエッセイです。小林は、鐔が単なる実用品ではなく、戦国武士の精神を映し出す芸術品であると主張しています。また、鐔の装飾には、戦国武士の仏教観が反映されているとも述べています。小林の文章は、鐔の美しさを余すところなく伝えており、読者に鐔の新たな魅力を気付かせてくれます。

Bard の回答

これは良い感じですね。
読んでいなくても、それっぽく話せる程度にはまとまっているように思えます。

では、具体的に 内容を 読みとかせてみましょう。

次の文章を 100文字以内で要約してください:

鐔というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年来の事だから、
(途中 割愛)
不断に静かに鳴っているもう一つの音を聞くようである。

大規模言語モデルとして私はまだ学習中であり、そちらについてはお手伝いできません。

Bard の回答

ん? いきなり回答を拒否されました…
文字数の問題かな? でも、これくらいの分量には耐えてほしい気もしますが、試験運用中なのを考えると強くもいえませんね…

なお、ChatGPT に同じプロンプトを投げたところ、

鐔の歴史や意義についての多くの説があり、未だに不明点がある。室町時代以降の鐔が注目されるようになり、それは応仁の乱以降に変化した。乱世では鐔が重要視され、刀匠や甲冑師が頑丈な鉄鐔を作り出した。乱世において鐔は欠かせない存在であり、その製作過程は人間の心情の一部を表している。

ChatGPT の回答

と しっかり回答してくれます。

小林秀雄は Bard には まだ早かったか…


蓮實 重彦 を 読ませてみる。

Bardは 長い文章はダメかもしれない。という一抹の不安はあるものの
今度は、蓮實 重彦さんを Bard に挑戦させてみます。

という訳で、

次の文章を 100文字以内で要約してください:

東京大学は、その学生たちや社会に向けて、誰もが納得できる一般的なイメージや定義を提供する場ではありません。それは、何よりもまず、多様な「驚き」への可能性を生産する巨大な工場にほかなりません。一つの例として、「日本は学歴社会だ」という誰もが納得しがちな命題についてみてみると、これは、「その弊害を一手に担っているのが東京大学だ」と結論することで、何かを理解したつもりになりがちなイメージと対になった命題です。たしかに、その指摘は、日本社会のある種の側面について、何らかの事実を告げており、途方もない間違いとはいえぬかもしれません。しかし、いかにもそれらしい定義を口にすることで何かを批判したつもりでいることは、愚かなことであります。実際、「日本は学歴社会だ」と口にする人の何人が、「学歴社会ではない国」を現実にいくつ列挙することができるのでしょうか。おそらく、誰一人そんなことはできないはずです。かりに諸外国の事情に通じている人がいるとするなら、「日本は学歴社会だ」という言葉など間違っても口にしえないはずだからです。
 事実、日本のいわゆる指導層に位置する人たちは、政治家はいうにおよばず、官僚や私企業の上層部で政策決定や立案に加担する人びとは、諸外国の同類に比べて圧倒的に学歴が低いのです。ほかの国々のこの種の人びとの多くは、少なくとも大学院で修士号を獲得しており、博士、すなわち《Ph.D》の資格を持っている人も稀ではありません。ところが、日本の場合は、そのほとんどが学部卒の学士ばかりで、ときには、国家試験に合格しただけで学士ですらなくとも、対外的に日本を代表する地位に立ちうることさえあるのです。実際、日本は、教育と研究に多くの力を傾けている国々の中で、もっとも学歴の低い社会の一つなのです。大学院の進学率もいまなお恐るべき低さに低迷し、お隣の韓国にも遠くおよびません。これが、二十一世紀に向けての日本の人材養成の大きな欠陥となろうことは目に見えています。いわゆる「学歴社会」日本の弊害は、そのことに危機感を覚える様子もないまま、最も低い学位である学士号以外のあらゆる学位を無視しつづけていることにあるのだといわねばなりません。「東大が学歴社会の弊害だ」といういかにも耳当たりのよい結論に満足していると、こうした本質的な議論が見落とされてしまうのです。
 「学歴社会の弊害」の最大の問題は、大学に進学した人びとの多くが、二十二歳という低い年齢で、しかも学士という低い学歴のまま自分の将来の職業を選んでしまうことにあります。実際、大学出身者の平均的な就職年齢が、日本ほど低い国は世界に例がありません。他人より少しでも若い年齢で就職することが「秀才」の証しだと思われているのは、日本だけの特殊事情にすぎません。ほとんどの国の「秀才」たちは、充分な時間をかけて自分の多様な可能性を確かめてみる余裕に恵まれているのです。実際、二十二歳という年齢で自分に適する職種の選択など、できるはずもありません。また、低年齢層の新人を大量にかかえこむ企業は、その教育のために多くの熱量と資金を投入せねばならず、それが生産性を著しく低下させているのです。
 そうした状況を予見していた東京大学は、一九九一年度から大学院重点化を完成し、以来、かつての東大では想像できなかったほど多くの博士を、毎年生産しております。また、この四月からは、新領域創成科学研究科というまったく新しい構想の大学院を発足させております。そうした大学院の充実が、前期課程教育の力リキュラム改革や、後期課程教育の充実に向けての全学的な取り組みと同時的に進行していたことはいうまでもありません。あなた方を迎え入れようとしている東京大学は、このように、たえず変化に向けての権利を行使する動きにみちた環境なのです。

はい、わかりました。文章を100文字以内で要約すると次のようになります。

「東京大学は、学歴社会の弊害を担っているという指摘は、愚かであり、日本は教育と研究に多くの力を傾けている国々の中で、もっとも学歴の低い社会の一つである。東京大学は、大学院重点化を完成し、毎年多くの博士を生産することで、この問題を解決しようとしている。」

Bard の回答

あれ?
小林秀雄さんの時とは違って行けますね?
先程の回答されなかったのは ひょっとして 著作権に関係しての処理でしょうか?
それとも、平成以降なら受け付けますよという姿勢の表れとか…? (違)

いずれにせよ、回答結果を見る限りうまく要約されているように思えますので、仕事にも使えるかもしれないという期待は上がります。

では、先程の文書を 要約ではなく、もう少しわかりやすい資料化ができないか?
試してみたいと思います。

次の文章をマインドマップにまとめてください。
PlantUMLで使用できるような構造で回答してください。

東京大学は、その学生たちや社会に向けて、誰もが納得できる一般的なイメージや定義を提供する場ではありません。それは、何よりもまず、多様な「驚き」への可能性を生産する巨大な工場にほかなりません。一つの例として、「日本は学歴社会だ」という誰もが納得しがちな命題についてみてみると、これは、「その弊害を一手に担っているのが東京大学だ」と結論することで、何かを理解したつもりになりがちなイメージと対になった命題です。たしかに、その指摘は、日本社会のある種の側面について、何らかの事実を告げており、途方もない間違いとはいえぬかもしれません。しかし、いかにもそれらしい定義を口にすることで何かを批判したつもりでいることは、愚かなことであります。実際、「日本は学歴社会だ」と口にする人の何人が、「学歴社会ではない国」を現実にいくつ列挙することができるのでしょうか。おそらく、誰一人そんなことはできないはずです。かりに諸外国の事情に通じている人がいるとするなら、「日本は学歴社会だ」という言葉など間違っても口にしえないはずだからです。
 事実、日本のいわゆる指導層に位置する人たちは、政治家はいうにおよばず、官僚や私企業の上層部で政策決定や立案に加担する人びとは、諸外国の同類に比べて圧倒的に学歴が低いのです。ほかの国々のこの種の人びとの多くは、少なくとも大学院で修士号を獲得しており、博士、すなわち《Ph.D》の資格を持っている人も稀ではありません。ところが、日本の場合は、そのほとんどが学部卒の学士ばかりで、ときには、国家試験に合格しただけで学士ですらなくとも、対外的に日本を代表する地位に立ちうることさえあるのです。実際、日本は、教育と研究に多くの力を傾けている国々の中で、もっとも学歴の低い社会の一つなのです。大学院の進学率もいまなお恐るべき低さに低迷し、お隣の韓国にも遠くおよびません。これが、二十一世紀に向けての日本の人材養成の大きな欠陥となろうことは目に見えています。いわゆる「学歴社会」日本の弊害は、そのことに危機感を覚える様子もないまま、最も低い学位である学士号以外のあらゆる学位を無視しつづけていることにあるのだといわねばなりません。「東大が学歴社会の弊害だ」といういかにも耳当たりのよい結論に満足していると、こうした本質的な議論が見落とされてしまうのです。
 「学歴社会の弊害」の最大の問題は、大学に進学した人びとの多くが、二十二歳という低い年齢で、しかも学士という低い学歴のまま自分の将来の職業を選んでしまうことにあります。実際、大学出身者の平均的な就職年齢が、日本ほど低い国は世界に例がありません。他人より少しでも若い年齢で就職することが「秀才」の証しだと思われているのは、日本だけの特殊事情にすぎません。ほとんどの国の「秀才」たちは、充分な時間をかけて自分の多様な可能性を確かめてみる余裕に恵まれているのです。実際、二十二歳という年齢で自分に適する職種の選択など、できるはずもありません。また、低年齢層の新人を大量にかかえこむ企業は、その教育のために多くの熱量と資金を投入せねばならず、それが生産性を著しく低下させているのです。
 そうした状況を予見していた東京大学は、一九九一年度から大学院重点化を完成し、以来、かつての東大では想像できなかったほど多くの博士を、毎年生産しております。また、この四月からは、新領域創成科学研究科というまったく新しい構想の大学院を発足させております。そうした大学院の充実が、前期課程教育の力リキュラム改革や、後期課程教育の充実に向けての全学的な取り組みと同時的に進行していたことはいうまでもありません。あなた方を迎え入れようとしている東京大学は、このように、たえず変化に向けての権利を行使する動きにみちた環境なのです。

はい、喜んで。

[東京大学]
- 学歴社会の弊害
 - 学士号以外の学位を無視
 - 大学進学後に早期に就職
- 大学院重点化
 - 博士号取得者を増やす
-  新領域創成科学研究科
- 前期課程教育改革
- 後期課程教育の充実
- 変化に向けての権利を行使

コードは慎重に使用してください。詳細

Bard の回答
実際の Bard の回答イメージ

惜しい。
この形式だと PlantUML では処理できませんが、

マインドマップは作成できているので
これは 良い感じです。


井上 陽水 を 読ませてみる。

最後に、詩的な文章の処理について見ます。

分かるんだけど、よく分からない歌詞として パッと思いついたのが井上陽水さんだったので、井上陽水さんで試してみましょう。

では 早速、試します。

次の文章を20文字以内にまとめて。

夏が過ぎ 
(途中 割愛)
私の心は夏模様

夏が過ぎ、夏模様の心。

Bard の回答

どんどん行きましょう。

次の文章の風あざみって何?

夏が過ぎ 
(途中 割愛)
私の心は夏模様

井上陽水の「少年時代」の歌詞に出てくる「風あざみ」は、造語です。作詞者の井上陽水は、この言葉について「鬼あざみという言葉は知ってましたから、風あざみもあるでしょう、みたいな感じで録音した」と語っています。鬼あざみとは、キク科の植物「アザミ」の中でも、トゲがあるアザミを指す意味もあります。井上は、一瞬、頭の片隅に、辞書でちゃんとそういう言葉があるかどうかチェックしたほうがいいのかなと、チラッとはかすめました」としながら、一方で「そんなことチェックしてどうすんのという気持ちがあった」と述懐。造語であることを明かしていました。そして、「僕の仕事は真実をお伝えすることではなくて、楽けりゃいい」と語っていました。

この歌詞の中で、風あざみは、過ぎ去った夏の少年時代の象徴として使われていると解釈できます。夏が過ぎ去った後、少年は、大人になっていくことになります。大人になると、自由に遊ぶことができなくなり、夢や希望も失われていきます。風あざみは、そんな少年時代の儚さを表しているのかもしれません。

また、風あざみは、少年の孤独の象徴としても解釈できます。アザミは、トゲがあるため、近寄りがたい植物です。風あざみも、同じように、孤独で、傷つきやすい少年の心を表しているのかもしれません。

「風あざみ」という言葉は、この歌詞の中では、明確な意味を定義することはできません。しかし、過ぎ去った夏の少年時代の儚さや孤独を表現する、重要な言葉であることは間違いありません。

Bard の回答
次の文章の詩的だと思うところはどこですか? 1つ以上あげてください。

夏が過ぎ 
(途中 割愛)
私の心は夏模様

井上陽水の「少年時代」の歌詞は、とても詩的だと思います。特に、次の部分は、夏の終わりの切なさと、少年の成長の美しさを感じさせてくれます。

夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様

この部分では、夏の終わりに、誰かへのあこがれを抱きながら、青空を見つめる少年の姿が描かれています。風あざみは、夏の終わりに咲く花で、この花が咲いたということは、夏が終わりに近づいていることを意味しています。少年は、夏が終わってしまうことを寂しく思いながら、まだ見ぬ未来へのあこがれを抱いています。

この部分は、夏の終わりの切なさと、少年の成長の美しさを感じさせてくれる、とても詩的な歌詞だと思います。

Bard の回答

元ネタを当てて、さらに解説してくれるので
ちょっと便利に使えそうな予感がします。

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