ドアに触って

 「英会話スクールに行きたーい」という思いから、電話をかけ、全盲であることを伝え予約を入れてから2週間が経過した。
そしてこの度ようやく受講ガイダンスを受けることができた。私にとって今回の最も大きな収穫は、ビルの6階にある英会話スクールのドアに触れたことだ。
 普通ならカラフルで魅力的な受講ガイダンスのパンフレットやその内容のことで頭がいっぱいになり、どんな道順だったかとかドアはどんな触り心地だったかとか全く覚えていないことだろう。しかし私にとってこの日重要なのは後者の情報だった。これを覚えておかないと次から英会話スクールに辿り着くことすらできないかもしれないからだ。
 スタッフとの待ち合わせは、11時半に指定された駅の改札前だった。9分前に到着した私はドキドキしながら、柱の傍に立っていた。数分後「スクールに受講ガイダンスの予約を入れてくださった方ですか?」と電話の時のクモさん(仮名)とはまた別のスタッフに声をかけられた。クモさんと同様、いかにも営業マン風の人だった。クモさんと違うのはより自分に自信があるかのようにはきはきと大きな声で話す点だ。客を囲い込めるぞと自信にあふれているようだった。まるでクモの巣で待っていた巨大グモがより強そうなカマキリにパワーアップしたようだった。もちろんこのスタッフが実際にカマキリっぽい見た目をしていたかどうかは分からないけれどここではこの人をカマキリさんとする。
 待ち合わせ場所から、私はカマキリさんの肘を持たせてもらいながらスクールまで歩き出した。カマキリさんはとても親切だった。「歩く速さはこれくらいで大丈夫ですか?」、「点字ブロックの上を歩いたほうが分かりやすいですか?」、「ここから20歩くらい行くと右に曲がります。」とこまめに声をかけてくれた。率直にカマキリさんはとても素敵だと思った。私が覚えられるように、ゆっくりと道順を説明をしてくれたからだ。電話で「何度か練習をすれば1人でスクールまで行けます。」と伝えておいたこともあり、私が1人で通うことを前提にスクールまでの経路を事前に調べていてくれたのだ。それは、「見えない人が駅や道を1人で歩くのは無理だろう。」とありきたりな思い込みを押し付けるのでは無く、「自分で行けるようになります。」と言った見ず知らずの私の言葉を信じてくれたからだろう。もしそうでなければ、「次からは家の人とお越しください」とか、「(目の見える)お友達といらしてください」とこれまたよくある言葉でいくらでも言えたはずだ。まー、私の場合「家の人」というのも同じく全盲なのだが。
 カマキリさんのおかげでどうにか行きのルートを覚えることができた。曲がり角の凸凹した道路の形状、道を横切る点字ブロックの数、地下鉄の入口前にあるにぎやかな薬局の音、行き過ぎた所にあるカフェの匂い。触覚や聴覚、嗅覚、私の使えるあらゆる感覚を総動員し経路の特徴を頭にインプットしていった。
 ただ、いくらこの親切なカマキリさんが分かりやすく教えてくれたとはいえ、複雑な駅を抜け大きな道路沿いを信号を渡りつつ歩かなければならないルートの難易度が私にとって高いことには変わりない。事実この1日の中で最も頭を使ったのは、受講ガイダンスやスタッフからの聞き取りなどではなく歩行ルートを覚えることだった。何しろエレベーターでスクールのある6階まで行きついた所で「わー、ここかー…。やっと着いたー。」とため息交じりに言ってしまったぐらいだ。
 それでもどうにか英会話スクールのドアの前まで辿り着いたのだ。

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