「hello」の一言に思いを込めて

 1か月かけて、「hello」と一言言いに行くことができた。これほどまでに達成感や喜びに満ちた挨拶をしたことが今までにあっただろうか。
 今回で英会話スクールの訪問も2回目となる。
 数週間前に覚えた、駅からスクールまでの地図を頭の中いっぱいに広げ、私は歩き続けた。何個目の角を曲がるか、信号から建物までの歩数は何歩か。心配になるたびに頭に描いた朧な地図を凝視した。周囲からはふらふら、のろのろ歩く私は、まるで徘徊しているゾンビか何かのように見えたことだろう。
 そうしながらもどうにかスクールに辿り着くというミッションを達成した。とはいえ慣れない道を歩くことは予想以上に疲れる。到着時既に私のHPは半減しており空腹を感じ始めていた。
 スクールのガラス戸を押し開けると前回と同様、カフェのような柔らかな香が鼻孔に広がった。私はこの心地よい雰囲気を味わうように深呼吸をして、中に入った。入口のすぐ傍にあるカウンターにはクモさん(前回案内してくれたスタッフ)が待っていた。そして嬉しそうに
「こんにちは、すごいですね!1人でいらっしゃったんですね!」
と声をかけてくれた。声の調子からきっとはつらつとした笑顔をこちらに向けてくれているのだろうと想像した。このクモさんは種々の言動により私の頭の中では割とイケメンということになっている。勿論実際がどうかは私の知るところでは無い。見えない分勝手に相手の外見を想像しているだけなのである。このように人の見た目を都合よく想像し楽しめるというのは見えない特権かもしれない。
「そうなんです。丁寧に教えてくださったのでどうにか来れました。良かったー。」
と私は答えた。まるで初めてのお使いを成功させて帰ってきた5歳児のように、嬉しさと安堵でいっぱいだった。
 それから例のごとく1つのテーブルに案内され飲み物を注文した。今回はひんやり、すっきりしたオレンジジュースだ。
 運ばれたオレンジジュースを飲みながら待っていると、ついに外国人講師がすたすたと軽やかな足音と共に現れた。彼女は私に
「Hi, hello.」
と元気に声をかけ向かい側の席に着いた。彼女の声は優しくとても透き通っていた。それは、まだ私の眼が見えていたころ、小学校の校庭で見上げた青くて広い空を思い起こさせた。私は
「Hello. Ah! Nice to meet you.」
と中1の教科書にあるような挨拶のテンプレを返してしまった。
 しかし、私の言った「hello」には初めて会えたことへのどきどき、ここへ来るまでの過程に対する達成感、これから何かが始まりそうなわくわく、いろんな思いが詰まっていた。
 その後聞き取れない言葉や、言い表し方の分からない事柄に窮しながらも会話は進んだ。自分がどこで生まれ、どんな学校に行き、今何を考えどうしているのか。50分の間に沢山のことを伝えた。オーストラリアから来たという彼女も旅行で訪れたタイのこと、大学生時代に学んだ心理学のこと、アメリカにあった恐ろしいお化け屋敷のこと。楽しく興味深い話を沢山してくれた。
 最後に私は自分がどのクラスになるのかを尋ねた。今回のレッスンは、私のクラス分けテストでもあったのだ。すると彼女は
「基礎力はあるようだから、あなたはグレート4ね。頑張って!すぐに上達するから。」
と言ってくれた。このスクールでは1から6までのレベル分けがされており、4は中級クラスだ。ここから私はスタートする。「hello」を言いに行くぞと1歩踏み出したことで次の2歩3歩は、より進めやすくなったのではないかと思う。誰とでも楽しく英語で話せるようになることを目指し少しずつ進んで行きたい。
 そう決意をし、スクールを後にした。そして恐ろしい食欲に突き動かされ、駅地下のパン屋を目指し、歩き出した。忘れては行けない。私のHPは既に底を突きかけており、よく考えたら、いやよく考えなくても空腹状態にあったのだ。ある意味今日最大の本能的な危機である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?