もしも私が洞窟に住む魚だったら

  私は全盲であり、障碍者だ。ただ、もしも私がこの場所に生まれなければ、人間として生まれなければ、障碍者ではなかったのかもしれない。
 社会が障害を作り出すという一つの考え方があることを大学の講義で知った。
 私が取っていた発達障害に関する講義で、文字の読み書きに困難さのあるディスレクシアという障害について学んだ。その時、もしもディスレクシアの特性を持つ人が、無文字社会の地域や民族に生まれたら障碍者と呼ばれるのだろうかと疑問に思った。
 そこで、
「先生、無文字社会では、ディスレクシアは障害にならないですよね?」
と至極当然な質問をした。すると、先生は
 「はい、そのような場所では障碍者ではありませんね。」
そう、きっぱり言われた。
 潜在的に文字の読み書きに困難さを抱えていたとしても、そもそも文字を必要としない社会では、気づかれることすら無いのだ。
 私は、その答えを聞きとても嬉しく感じた。自分の身体的な機能の不具合のせいで、自分が障碍者になっていたという思い込みから、少し解放されたような気がしたからだ。私は、たまたま視力を必要とする社会に生まれたため、障碍者に区分されているだけなのだ。平たく言えば私のせいではないということだ。
 文化やその時々の価値観により何を障害ととらえ、誰を障碍者とするかは変わってくる。それだけ、障害は揺らぎやすい物なのだと気づいた。
 もしも私が、光の届かない洞窟で、眼を使わずに生きる魚として生まれたなら、他の魚たちと何も変わらず、悠々自適に泳ぎ回っていたことだろう。そんな想像をするとわくわくしてくる。
 しかし、現実として、私は魚ではなく人間として生まれた。洞窟に住む魚になる夢ばかり見ていても仕方がない。
 社会が行きやすく変わっていくことを期待しつつ、自分自身もうまく社会で生きていけるよう進化しながら、まだまだ人間として生きていきたい。

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