音楽理論をどう考えるか

HimeHajimeさんの記事を読んで色々考えるところがあり、音楽理論って音楽制作にあたって本当に必要なのか、改めて考えてみました。

音楽理論って基本的に「後付け」なんですよ。過去の作品を分析した結果の集積なので、必要かどうかと考えると、どうしても必要ないと感じています。

「教会旋法」なんていい例で、あれはグレゴリオ聖歌を分析した結果得られたもので、当時の人は「全く意識していなかった」という点が実態でしょう。

「Scarborough Fair」や「Greensleeves」も、いわゆる「Folk Song(言ってみれば「民謡」)」なので、別にドリア旋法(レから始まるマイナー系の音階で唯一6度の音が短6度ではなく長6度になる旋法)を意識して作られた訳でもなく、単にその当時のあの地域の音楽ではそれが自然なものだった、と考えるのが妥当ですから。

実際にはこちらの方が当時は自然な音階であり、エオリア旋法(いわゆる今でいうところの「自然的短音階」に繋がる「ラシドレミファソラ」で構成される旋法)より、一般的だったとも言われているほどです。

口頭伝承的な音楽に「理論があった」などと言うこと自体がナンセンス極まりない行為だと思います。

大バッハが和声法に基づいて作品を制作していた、ということもないんですよ。バッハの音楽を聴くとその中に「和声法」に合致した作品群があるだけの話で、この和声の次はこの和声に進まなきゃ、と考えていた訳ではありません。

実際に和声法なり対位法が確立された後でも、「禁則」と言われることも、それほど気にされず使われている訳で、作曲家はそれほど気にしていないで制作していたことは「作品」を聴けばすぐ分かる話ですから。

一番嫌なのは、そんな「理論」、しかも間違ったことを平気で教える人がいるのにもかかわらず、それを真面目に信じて「勉強」している人がいて、安定的な状態を保っていることが許し難いです。

音楽理論を何の疑問も持たずに「正しいもの」と信じて、学んでいる方がいる一方、それを教えることで生計を立てている方がいる、これって共依存の世界としか言いようがないのかと。

大体「ドミナントモーション」すらただ自分が教えられたことを咀嚼もせずに、自分が教えられたことをそのまま人に教える、こんな人達が散乱しているのが、今の実態だと思っています。

まあ相当な高確率で、きちんと音楽を教えられる方に出合えない場合の方が高いと思います。

何故Ⅴ-Ⅰがドミナントートニックの関係になるのか、きちんと答えられる人が少ない、それが今の音楽業界の実態です。

「強進行」と「導音」が「核」なのに、「トライトーンが」って説明をする人が多すぎます。大体7の属音がなくても「Ⅴ-Ⅰ」の解決は成り立つんですよ。

ってそういう自分がくだらない「理論」によっちゃてますね(汗)。

ただそういう理論にも「意味」はあるのだと思います。

前にも書いたと思いますが、それこそコードを知らないような方が書く曲が「循環コード」しか付かないような曲を書くことが結構あるんですよ。

なんとなく曲を聴いて「模倣」してしまっているのだと思います。

理論を知っていれば、そこから「外す」ことが出来ますからね。

そこから「オリジナリティ」なりが生まれてくる訳で、そういう意味では「理論」は重要と言えるかもしれません。

まあ、「オリジナリティ」なる代物が「近代的自我」の産物であり、オリジナルなものではない、とも言えるのですが(笑)。

ある意味全ての音楽は「コピー」なのかもしれないのかもしれません。先人が制作した作品の上に、現在の作品は乗っている訳ですから。

ただ「コピー」であったとしてもその上に何かしら載せたい、というのが近代的自我ですし、それを捨てるのも容易ではないことでしょう。

「現在」を生きている以上、その意識の上で動いてしまう、これ自体が「音楽」と「音楽理論」と類似した関係のようにも思えますが、音楽では離れられても、意識の世界にまでいってしまうと、そこまではなかなか難しいですよね。

実際に今を生きている訳ですから、そこから外れるというのは相当困難だし、社会性も失うことになるでしょうから。

まあ人間社会から足を踏み出すのはやはり「怖い」ですが、少なくとも音楽の世界では「人とは違うこと」ことをやりたいものです。


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