和声⑤
今日は予定通り「ポピュラー」における「和声」について書いていきたいと思います。
この場合の「和声」というのはコード進行における規則(原則といった方が正確かもしれません)といったもので、クラシックにおける「和声」とは違ったものです。「対位法」という概念がないが故に起きた現象です。
ただ和音の機能の概念はクラシックのものの基本的な形を引き継いでいます。
なぜ現代音楽では参考文献的なものでしかない「和声」がポピュラーで定着したかというと、大半のポピュラーは「調性音楽」だからです。
やはり調性音楽の分析には役に立つし、ジャズの影響により和音自体が複雑化する中、この手法はやはり有効でしょう。
いわゆる「循環コード」も「和声(と呼ぶべきではないのかもしれませんが、便宜上この表現をポピュラーにおいても使うこととします)」。と呼ぶべきものでしょう。大半はシンプルなものですが。
でこのシンプルさにはやはり理由があって、和音自体が複雑化するが故に、コード進行まで複雑化すると音楽自体がとっつきにくいものになるからです。
音楽は音を楽しむものですからね。それがあまりにとっつきにくいものになってはやはりまずいでしょう。
ただ、本当の理由はそこではありません。和音にテンションノートが付けた分だけ、本来の響きが損なわれるから、和音の機能が希薄化していく事になります。
もちろんジャズはそんなことおかまいなしに複雑化していきますが。
Miles Davisの名盤「Kind of Blue」でモード・ジャズが提示されたのも、コード進行による演奏の自由度が低下したことに対するアンチテーゼとも言える訳で、ポピュラーでもジャズだけは果てしなく複雑化し続け、最終的にはフリージャズにまで至った。
その後、「揺り戻し」も起きて正常化されましたが、やはりジャズは一般的なポピュラーより音楽として複雑と言っていいでしょう。
まあ複雑であればいい、というものではないことは言うまでもないことですが。
だめですね、また話が脱線している。
ただ確実に言えることは、コード進行が複雑な曲は和音自体は複雑でないことがほとんどでだということです。
コード進行が複雑な曲で和音が複雑化すると、そのコード進行が分かりにくくなるからでしょう。
ただ途中からこの記事、「和声」から「コード進行」にすり替わってますよね。
当然こうしたことには「理由」がありますが、その辺の事情が明日の記事にしたいと思います。
もう随分文字数が多くなってしまいましたから。
ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。