純邦楽③
昨日は「純邦楽」について語りにくい、ということを書きました。
ただ昨日の話は理由の一つでしかない。
基本的に子弟関係の下で学ぶものです。しかも基本実技の伝授のみ。
誰も理論化なり体系化しようとはしなかった。
純邦楽全体を体系化することはそもそも無理がある、これは流派の問題があり、いわば「閉じた世界」なので、確かに難しい。
ただ、その「閉じた世界」の中ですら体系化する人はいなかった。
譜面の出現も基本的に明治以降の話で、ある意味西洋音楽の影響下にある。
自分は長唄をやっていましたが、三味線、使っているのはいわば「TAB譜」です。
どの弦のどこを押さえるかであって、音程を表してはいないんですよ。まだこれでも以前よりは進歩したんでしょう。
そういう媒体がない方が「権力」の維持には都合がいいんですよ。
一般化される=誰でも弾けるという図式が成り立たない方が自分の権威は高まります。
ある意味西洋音楽の体系も「権威的」ですが、学ぶ気さえあれば、誰でも学べるようにもなっている。
言語化されているから。
ただ明治以降、純邦楽も西洋音楽の影響を受けざるを得なくなってくる。
そこではやはりある種の言語化が発生する訳です。西洋音楽に負けちゃうから(笑)。
ただ、ここでまた別の問題が発生します。
続きは明日にでも。
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