家康への道~庶民からみた関ケ原&家康が「江戸」の名に込めたもの

中国最古の詩集である『詩経』(紀元前11世紀~7世紀)の大序にこうある。
「詩は志の之(ゆ)く所なり
 心に在るを志と為し
 言に発するを詩と為す」(『詩経』p27)

自分が本当に言いたいこと、歌いたいことを表現する、それを突き動かしているのは「志」であり、詩とは「心」の世界の表現であることを、今も伝えてくれている。
詩以外の、表現といわれる万般に通じることでもあるように思う。

「志」、その熱い心を一番感じる日本の歴史小説家は、私にとってはやはり吉川英治氏であり、私が今回関ケ原をどの視点から学ぼうかと思案しているときに、一番みていかないといけないのは、当時その地に生きていた農民たち、民の様子ではないかと思った。
その視点をもつ吉川英治氏の作品は、実に生き生きとしていて、いつも庶民の視点を大事にしている。
『新書太閤記』の影響は多分に受けているのもあるが、学生時代より『レ・ミゼラブル』を愛読書とする私の考えでもある。

戦国時代の歴史を形成し、変動させている主体者は、戦国武将だけではない。当時生きていた庶民もである。
あの時代の混乱を死力を尽くして乗り越えてきた庶民がいたからこそ、今があるといってよい。その奮迅の様を、関ケ原で追えないだろうかと、大きな期待をもって私は関ケ原の地を踏んだ。

山がこんなに強さをもっているとは。存在感が並みではない。

関ヶ原の印象。そして、この山々はどれほどの人間の声を受け止め、生き抜く姿をみてきたのだろうかと、雄大なその様を見ながら、山がもっている声に耳をすますような時間をしばし過ごしていた。

関ヶ原記念館内では各陣営の動きや当時の武将たちの着用していたもの、戦で使われた武器の模型などが展示されていたが、私が求めていた資料の凝結したものをついに発見した。

「オラたちの関ケ原」という動画コーナーである。
それは2階の展示コーナーの隅っこにあり、その動画の前には5脚ほどの椅子が用意されているが、とても質素なコーナーで、そこに足を止める人も少ないように思えた。しかしそれを熱心に観ている婦人がいる。少し離れて腰かけて、ノートとペンをもち鑑賞。
その内容を簡潔に書くと、

約400年前の関ケ原。1600年の関ケ原は米や麦を作る平凡な村であった。
三方を山々に囲まれ8つの村、約2000人が住んでいた。
9月3日、大垣城に、大谷隊が到着したとの報がこの村にも届く。
関ヶ原の村々の領主は西軍の味方であり、西軍の陣地づくりに協力し、村を案内した。
まず、村人がしたこと。兵士たちはあさましいので、村の女・子供を山奥の、兵士たちの目の届かないところに避難させる。
そして、村は稲の刈入れ前であったが、青田刈りをする。青田の状態のまま刈り取ると収穫量は減るが、戦によりこの土地は壊滅的に踏み荒らされることは確実なためである。

9月14日夜、主力が関ケ原に到着。濃い霧がたちこめているなか、西軍の戦に備えた土木作業を村人も手伝うこととなる。また避難場所も確保するようにしていく。
そして開戦。
村人が驚いたのは、西軍に味方していたと思った領主・竹中重門が東軍派にいたことであった。大谷吉継が自害し、事態は一変。あっという間に東軍の勝利は確定した。

結果、この村に残ったもの。。
踏み荒らされた田畑とともに、1万2千人の犠牲者のおびただしい遺体。
落ち武者狩りがウロウロし、この戦の舞台になり荒れ果てることとなるこの村を捨てて逃げた村人は戻らず、再建できそうにない荒野を前に、茫然とする村人たち。

その村人たちが必死に向かった先こそが、
その時、滋賀県大津城にいるという徳川家康のもとである。
9月23日、到着し、家康に直訴するのである。なにをか。それは、はびこる略奪を禁じる、「禁制」の発行である。

一農民の訴えに、家康はなんと答えたか。
「あいわかった」
そして同日9月23日に禁制が公布され、治安が戻ることとなり、逃げていた村人も戻り、彼らとともに村人たちは傷ついた兵を守り、亡くなった兵士たちの墓をつくるのである。
東首塚。丁寧に葬り、合戦で使われたものを片付け、丸太なども運び、村を再興していくのである。犠牲者を偲びながら。
一石五輪塔は、関ケ原の人々は戦で亡くなった人を忘れないという思いで建てられ、そこには関ケ原以降、遺族たちが訪れ、自分たちの地元の石をもってきて、そこに置いて回向したようである。

補足する意味でも、『戦国時代の暮らし図鑑』(小和田哲夫監修)を引用したい。
「横行した略奪行為」p170
「~戦の最中には常軌を逸した行動が横行する。略奪はその最たる例だ。
「乱取り」といって、兵の一部が非戦闘員である近隣住民を襲って金品を強奪したり、女性に乱暴をはたらいたりするのだ。
時には民家を壊し、農地を荒らすこともある。あとで奴隷として売るため、村人を拉致していく「人取り」も行われていた。

このような蛮行が頻発する背景には、褒賞の不足が挙げられる。戦の勝ち負けにかかわらず、身分の低い農民出身の足軽には満足いく褒賞が与えられなかった。
その代わりに、彼らを雇い入れる側は、戦時のどさくさに紛れた略奪行為をある程度は黙認していたのである。
とはいえ目に余る略奪は軍規の乱れにつながる。織田信長のように、民間人への暴行や略奪を禁じる者もあった。
一方で、死や投降を嫌って逃げた者を待つのが落ち武者狩り。戦で田畑を荒らされた農民には意趣返しの好機であり、勝者に対する帰順の証でもあった。」

このように、荒廃していたのは土地だけではない。
応仁の乱以降終わることのない戦の連続で、人の心が荒廃していたのである。
この著のp192の中の考察にもあるが、応仁の乱の1467年頃、アジア全体で平均気温が急激な低下となった時期と一致し、冷夏や長雨により凶作が続き、飢餓も増え、それにより飢えた農民が暴徒化し、田畑を捨て流民となり、略奪が横行。社会全体に不安が強まり、戦の連続の戦国へと日本はすすんでいった。
今もその道理は変わらないのかもしれない。世界をみても、領地を増やし自国のみ富むように戦争をしかけてきて、そこには「地球に同じく暮らす、同じ人間である」ということなど忘却されている。

戦に次ぐ戦で、荒野と化していた日本の大地と、民の心。
そこに終止符を打ち、安定させたという点でも、家康は大功労者といえる。安定した礎を築いた、あれだけのことを成した人物。並みの人物ではない。

その人物のことを吉川英治氏がこう描いているシーンが印象的である。
彼は長久手の戦を前に、静かに論語を読んでいた。

「秀吉より六ツ年下の、ことし四十三歳という男ざかりの武将。
こんな、やわらかそうな肥肉と色の小白い皮膚をもった好人物が、胸に百計を蔵し、瞳に大兵を収めて、戦争などするのかと、疑われる温和に見える。」『新書太閤記』10巻p304

関ヶ原の戦の後も、一農民が滋賀の城まで直訴しにきたことにすぐさま手を打ち、全方向に視野を冷静に向け、手を打つ。この静かな強さは、やはり、新書太閤記で描かれる、論語を読む家康像にあるように、また実際そうであったように、深い学問への造詣が影響しているのではないだろうか。

それは、過去幾多の先哲たちが、いかにこの世を泰平たろうとしたかを希求したかを、書物を通じて彼は会話していたのだと思うのだ。

そんな彼がいつも旗印に書いていた言葉は、きっとその結実ともいえる。
「厭離穢土、欣求浄土」
現実世界は「穢れた土地」であり、それを厭う。阿弥陀如来の極楽世界は「清らかな土地」であり、そこへの往生を切望する、の意。

ここでふと疑問がわかないだろうか。それを考察した書物に会えた。
『戦国武将の明暗』本郷和人著
そこにこのようにある。
「さて、このとき、穢土は「えど」で、江戸に通じる。音を大事にする風があるとすると、家康は「えど」の二つの意味を十分に意識していたはず。それでも地名を変えず、彼はこの地で、日々を送り、政権を構築する。あえて、江戸を選択し、穢土に身を置く家康。そこには、何か深い精神性が感じられるように思うのです。」p52

江戸。家康が入ってくるまでの江戸城は、扇谷上杉氏、続いて北条氏の武蔵支配の拠点。一定の発展は遂げていたが、徳川家の居城にふさわしい規模にはとうてい及ばず、家康は盛んに土木工事を行って町を広げ、現在の巨大都市の原型を整備したのであるが、

彼がなぜ、政権をとったとき、歴史上、永く日本の中心であった京都を都としなかったのか。それは以前、司馬遼太郎氏の考察とともに考えてみたが、
新しい土地で、新しい息吹をもつ土地で、一から自分の都をつくりあげたかったと考えるならば、思い入れがあったとするならば、
なぜ、江戸を穢土として、生きていくことを選んだのだろうか。

町の名前を家康は気にしなかっただけという意見も周りにあり、本郷和人氏は反論込めて、1570年居住を三河から、遠江・曳馬に移したとき、
曳馬は「馬を曳く」つまり、戦に敗れるのを意味するから縁起が悪いとの理由から「浜松」に改名していると考察(ちなみに松という字がつく都市名が多いのは松は常緑樹で冬でも緑を絶やさない。そこを大名たちが好んだのである)家康もまた、町の名前を気にする人物であったと続く。

本郷和人氏は続けてこう考察する。
「家康は「江戸」=「穢土」を居処とする。
人々が生活を営む、この罪多き土地。その地で懸命に生きることにより、私は浄土の創造を追い求めるのだ。家康の思いはそうしたものだったのではないか。ちょっとカッコ良く解釈しすぎかな?
でもぼくは、研鑽を怠らなかった家康は、教養と精神性を兼ね備えていたと思います。
とくに関東に移って「人間五十年」を過ぎた彼は、幼少からの苦労と相まって、懐の深い人物に成長していたに違いない。」p53

この考察を読んだとき、
確かに「厭離穢土~」を掲げる家康が「江戸」という名前を敢えて変えることをしなかった疑問が、自分なりに理解できたような気がした。いやそれはそうであってほしいという願いでもあるのだが、

家康は長い戦いの人生にあっても、希望だけは捨てなかったように思うのだ。
それは人間への希望。
いかに悲惨な、いかに見苦しい現実社会のなかにあってさえも、それと死力を尽くして奮迅しながら、乗り越えていこうとする人間性への信頼といえる。
それはなぜかというと、彼が読んでいた書物はすべて、その思想が根底にあるからこそ、存在しているからである。
先哲たちが書き残したものに、普遍して貫かれているものは、「人間性への信頼」。それなくして、どうして、自身の時間を、労力を使ってまで思索し、苦労し、書き残していったのか。まさしく、人間をやはり、信頼したかった。一縷の望みを捨てなったからこそ、書物は存在している。

その彼らの希求するものを受け止めていたのが、家康のように思える。
もちろん書物からだけではない。なによりも、失った家臣や家族から、彼は大事な思いを託されていたのだろう。
それを形にした彼の努力に、ただただ感動しかない。

彼は「江戸」に託したもの、たぶんそれは、江戸が穢土に思えても、必ず変えられる、浄土をこれからここで創造してほしいという、後世の人間に託した強い希望のようなものを感じて、ただただ、彼の大きな心を思っている。

実際のところ、なぜ江戸の名前を改名しなかったの?これは本当に家康に聞けたらいいなと思うことでもある。いつか叶う日がくるだろうか、星のどこかで話せるとかななのかな?先日の大河の石田三成と家康のように。それはわからないけれど。

最後に、関ヶ原を訪れて、一番行きたかった戦没者たちのお墓に足を運び、しばし静かな時間を一人過ごしていた。

風が木々を揺らす。秋ともいえる時期であるが夏にしかきけないセミの鳴き声が、遠くに響いている。
耳をすます、心をすます。関ヶ原に至るまでも、どれほどの命が失われたのだろうと思う。。私が関ケ原にきたのは9月16日。関ケ原の次の日。きっと実際の関ケ原もこの日は戦の後の、悲しい風景が広がっていたにちがいない。

手を合わせていると、彼らの「もっと生きたかった」という心が伝わるようだった。
その無念の想いが、必ずどこかで叶うように、のびのびと生きる命としてどこかで生きていてほしいと願いながら、微力な自分ではあるが、今自分の周りにいる誰かを大切にすることが、実は彼らの切ない思いを昇華させる唯一の方途なのかもしれないと思い、
これからも仕事や家族、友達を大切にだな、と、やわらかい気持ちになりながら、帰途についた。

最後に『ベートーヴェンの手紙』(上)岩波文庫より
友への書簡p30
「あなたの思い出は本当にいつも生き生きとわたしの胸の内にあります。(中略)
わたしはあなたを尊敬しており、また真の友であることを表せるような事なら何でも喜んでいたしましょう。」
これからの自分の道を歩む日々が、少しずつ豊かになっていくのを感じながら、まだまだ家康への道の学びはつづく。

(余談)
今、かつてないことが起こっている。
ジャニーズ事務所を取り巻くさまざまなニュースにどうして心を痛めないでいられよう・・歌でいつも励ましをくれた大事な友ともいえる、嵐の在籍している事務所。大事なひとたちがいる場所。

真相を知る立場にない私が、ここで大きく主張するのは適切でないと思うので、、ただ言えることは、今在籍している人たちは、一生懸命エンタメに日々尽くしているということは事実である。

一生懸命生きているひとが、批判されるのがとてもつらい。

大きな風のなかにいるような気持ちで、どうにも落ち着かない気持ちがあったけれど、すぐに落ち着けた。
それは、「なにがあっても」の気持ちである。
私は27歳の時、ガンの告知を受け、戦った過去がある。
その告知を受ける前に、大きく心が揺れて自分が壊れそうで怖かった。一人で待合室で結果を待ちながら、手が震える。でもある瞬間、不安で大きく波打つ心が、スッと落ち着いた。
あることを思った瞬間である。

「なにがあっても、恩返しの為に生き抜いてみせる」

当時私は、激務のなかにいて、あまりに体を酷使してしまっていたのだろう。原因はわからない。でも、子どもたちの為に生き抜くと決めていたから、その道をこれからも歩むことに微塵の後悔もためらいもなかった。

ここに今自分があることはたくさんの友達が支えてくれたから。
そこに私は恩返しがしたかった。闘病も大変ではあったが、もう深くは覚えていない。ただふと思い出すのが、やはりあのときも、嵐の歌声をきくとほっとした。
「変わらないでいてくれていること」
このことが、すごくうれしかった。歌詞と声が大好きだった。

嵐もたくさんスキャンダルもあったし、ヤンチャなところも満開だったけれど(笑)、私はそれはあまり気にならなくて、ただ「元気でいてくれたら」それだけでよかった。

その気持ちは今も不変で、この渦中にあって、ただただ、彼らが元気でいてほしい、そしてまた風向きは必ず変わる、変えてみせる、である。

大河を頑張る松本潤くんが、どうかどうか、最後まで完走できるように、私は「苦しいときの友こそが真の友」という言葉だけを抱きしめて、
できることを。そしてきっと、悲壮感になってしまうことは望んでないと思うから、楽しみを日々みつけて、たくましく乗り越えてやろうじゃないか!
と、そんな気持ちで過ごしている。

なにより、すべてがいい方向にいくように。それがどんなカタチかはわからないけれど、一生懸命生きてるひとが、ちゃんと幸せになれるように。
それだけを願って。

いかに周りが大きく揺れても、自分の心のなかに強い信念があるから、大丈夫。
大河ドラマでも、殿にみな「大丈夫」と伝えているシーン。きっとあれは
あの大丈夫の根拠は、大丈夫と話すその人の心に強く揺れない思いがあるからだ。
それは、みんな殿が大好きであるという核である。
殿こと、松本潤くんはたくさんの人から愛されてるから大丈夫!
それを観れるドラマでもあり、うれしい。

大河が、いい作品になるように、最後まで応援!
お疲れさまです!!

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