家康への道~文武への貢献&閑室元佶について

「大いなる誠実な努力も
ただたゆまず、しずかに続けられるうちに
年がくれ 年があけ
いつの日か晴れやかに日の目を見る
芸術も同じだ また学問も
しずかに まじめに はぐくまれ
ついには永遠に模範的なものが
すべての者の財産となる」
(ゲーテ全集)

川の流れの如く、自分の可能性を開くために不断なき努力をし続けた者が生み出すもののみが、永遠に輝くことをゲーテは伝えたかったのであろうか。
透徹した信念の美が芸術とするなら、その輝きの源は「徹している」ことにありと思う。

家康という人間を学べば学ぶほど、彼がいかに粘り強く、礼儀を重んじ、兵法にも優れ、情勢判断に長けていたかを思い、
その源流はいずこにあるのだろうかとずっと思索しながら学ぶなかで、やはり行きついたのが
「学問」であった。
幼少期の不遇な時代にあって、彼の一番側にあったものこそが学問だったのではないだろうか。彼の基底にあるものは学問としか思えない。信長、秀吉との圧倒的な読書量の差。

その透徹した学問への情熱こそが彼の人生を支え、天下という道を開いたように私には思える。

生涯を通じて彼は学び続けており、晩年も儒学者(林羅山など)の講義を聞いたり、史書をとにかくよく読んでおり、唐の太宗皇帝や源頼朝を尊敬していた。
学者らに命じて、古書や古記録を集めさせて『孔子家語』『貞観政要』『吾妻鏡』『大蔵一覧』『群書治要』などを活字版で出版させたことにより、文運交流の瑞緒となっていった。駿河に隠居した後も「駿河図書」など沢山の書籍を有する処を設けていたことからもわかる。

家康は文武の道を重視し、大和猿楽四座の大夫や狂言師などで名を得た者は召し出して観能しており、猿楽を好み、月ごとに興行していた。
それは自分の娯楽のためではなく、公家への饗応、諸大名御家人を慰労するためであった。また平家の琵琶法師や、囲碁・将棋などの名人を召して鑑賞していたことなどから、それらの文芸をしているものが、道を精進していける基盤を作っていったのである。

家康晩年、印刷事業を担った人物として閑室元佶(かんしつげんけつ)が有名であるが、彼は足利学校の校長を勤めた学僧で、徳川家康の側近として外交文書の起草と寺社の統制に当たった人物であり、家康の命によって京都の伏見に足利学校の分校として円光寺で教育に当たるとともに、
家康から与えられた活字十万個を使って出版事業を行って、その出版物は「伏見版」として、今日も知られているのであるが、その閑室元佶について、簡単にまとめたい。

閑室元佶~名は元佶、閑室を法号とし、別に三要とも号した。

徳川家康といえば、戦国武将の中では一番といってよいほど占いを用いていたことで知られる(浜松から駿府城に居城を移す際も、家康や秀忠の行路、ルートを占わせている)
特に関ケ原などで占いを頼った、閑室元佶。

1548年肥前国小城郡晴気村(現佐賀県小城郡)において出生。晴気(はるけ)城の城主・千葉胤連(たねただ)の家臣・野辺田伝之助の子となっているが、実際は城主胤連の側室が懐妊したまま伝之助に下げ渡され、そこで生まれたという。いわゆる拝領妻である。

子どもの時、千葉氏の菩提寺である円通寺で出家し、のちに足利学校に入学。
1577年、29歳の時には、足利学校で『易経』の講義を受けていたが、その頃の易経の第一人者九華(きゅうか)の弟子であり、抜群の出来だったので、生徒であるが、代わって講義したこともあったという学才。
鎌倉の建長寺や、京都の南禅寺に入ったこともある。
1587年には校長に就任。

足利学校とは、上杉氏のあと、関東を支配していた戦国大名北条氏の保護を受けていた学び舎。
その北条氏が1590年に豊臣秀吉に攻められ、滅亡してしまっただめ、財政基盤を失いかけた際に、反乱を収めに付近にきていた豊臣秀吉の甥にあたる秀次が学校の窮状を知り、再興された。

足利学校の書籍に興味をもった秀次は、孔子の画像や六経の一部など漢籍を京都に運ばせている(家康としては秀次のこの行為を批判的にみていた記録あり)、元佶を伴って帰京している。
秀次はこの時期、五山文学を復興しようとしたり、『謡抄』を編纂したりと文化・文芸面で功績を残しているが
1595年7月3日「秀次に謀反の疑いあり」ということで詰問を受け、その後、高野山に送られて、7月15日に高野山にて切腹させられている。

元佶も高野山まで従っているが、連座はまぬがれ、しばらく高野山にとどまっている。

1597年、元佶は高野山を出て、家康のすすめにしたがい足利学校の典籍等を学校に戻している。
9月17日には伏見の家康のもとへ伺候しており、これら秀次や家康への接近は足利学校の後援者を求めてのことだが、
家康も学術・文化顧問として元佶を喜んで近づけたようである。

10月24日に徳川家康の前で『毛詩』(詩経)を講じ、翌年もたびたび家康に『毛詩』を講じており、秀忠にも教えている。
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、家康と石田三成との確執は大きくなり、結局、豊臣家世襲路線の三成と、「天下は実力ある者のまわり持ち」と考える家康との意識の差は縮まらず、
1600年関ケ原の戦いとなる。

その時、関ケ原の戦いにあたり、家康から「学」の字の旗指物を下賜され、従軍した元佶が家康の求めに応じて、出陣の日取りを占っている点に注目。(江戸城を出陣する9月1日なのか、戦いの9月15日かは不明)
また、西軍についた鍋島勝茂を家康にとりなしてもいる。

家康にとっては「関ケ原の勝利は元佶が日取りを占ったおかげだ」という思いがあり、その後、家康の後援により、かずかずの事業に携わることとなり、
家康から下賜された木活字による伏見版の刊行もそれにあたり、家康の好みにしたがい書目を選定し、
1599年『孔子家語』にはじまり、
1606年『七書』にいたる六種の漢籍が刊行された。
これは慶長二年にはじまる、いわゆる慶長勅版の刊行とほぼ時期を同じくし、近世初期木活字出版の代表として著名である。

また西笑や板倉勝重とともに徳川政権の寺社行政に参与し、室町幕府の伝統を受け継いで外交文書を起草している。

1601年9月、京都伏見に足利学校の分校という性格をもたせた、足利学校の上方分校ともいえる円光寺学校を作り、
また、そこで印刷事業を展開させたのである。しかし伏見円光寺の遺跡は現存せず、立売町周辺であったと推定はされている。

上洛してから閑室は、栃木の足利学校の校長を退任し、京都が徳川政権の機内支配の中心になり、寺社支配のための政治事情により、西笑とのバランスもあったようである。

1605年には家康が後陽成天皇へ銅活字十万を献上することとなり、その実行計画にも携わる。
1607年には朝鮮通信使応接のため江戸へおもむき、西笑らもその返書などの起草に携わる。同年没した西笑に代わり、没年まで徳川政権の外交文書起草を担当する(渡航朱印状など)。

1609年には家康は、駿府に円光寺を創建し、元佶を開山に迎えた。
1612年5月20日に、元佶はこの駿府の円光寺にて65歳の生涯をおえる。没後、円光寺は総持寺へ移され、伏見の円光寺は彼の弟子玉質が1623年、幕府の命で相続した。その後、上京火災や移転などを経て、南禅寺の末寺に属する道を選んでいる。

大河でも西笑の登場は書かれているが、閑室元佶はどうなるであろうか。描かれないにしても、このような人物もいたことは深い学びとなった。

最後に足利学校について書きたい。
当時の占い、易学は、京都五山などでも研究され伝授されていたが、代表的なものは下野(現在の栃木県)の足利学校であった。
1549年のフランシスコザビエルの書簡には、京都の都付近に大学五校あり、各学校に3500人以上の学生を有すると記述のあるなかに
遠い場所の坂東に、足利学校というのがあるとの記述があり、2千~3千の学生を有していたとされる。

足利学校は古代、小野かむら氏により建てられたもので、1439年上杉憲実が漢書を寄進し、鎌倉円覚寺の僧を校長として迎え、学校として整備したとされている。
教授陣はすべて禅僧で、生徒も基本的には禅僧で、剃髪していたが、学業を終え、卒業すれば、還俗しても構わなかった。
授業では、三注・四書・六経・列子・荘子・老子・史記・文選などいずれも漢書であり、
のちに戦国時代になり、卒業生たちが戦国大名に迎えられていく傾向が顕著となり、「武経七書」の習得も大きな位置づけとなる。

足利学校が易学、占いの研究・教育のセンターであったが、ここに、兵学とも密接につながっていくのである。それが時代・社会の要求に答えることでもあった。『易経』は非常に難解で、しかし戦国時代の軍配思想と易が結び付いていた時代には、この易学を学んだ軍配者が、軍師として戦国大名に招かれていたのである。

武田信玄も、自己流で占うものをよしとせず、足利学校の卒業生を、その易を信用していたし、出陣を易者に占わせていた。

足利学校を学ぶなかで、戦国時代における占いについても勉強になった。

家康もまた、当時の武将らのように易学も学び利用もしていたのである。

家康は京都の南禅寺や東福寺の臨済宗の寺の長老や公家たちと交わり、学問のことを話題にしていたり、学問好きで、本好きではあったが、
詩歌の会は好きではなく、詩作や連歌は嫌っていたようで、漢詩を家康が作った記録はなく、もっぱら本を読むために時間を使ったようである。
書物好きの家康。

『吾妻鏡』にしても、源頼朝を尊敬し、頼朝によって始められた鎌倉幕府を強く意識して、江戸に都をおいたという説もあり、読書・学問はここまでもというほど、家康の政治構想と深く関わったのである。

また中国の政治論と歴史に通じており、1612年には林羅山と中国史における問答をしており、その内容からも、彼が学問を大切にしたのは、
単なる学問知識としてではなく、
実際の治政方針を深めたいという思いがあったからであり、

家康にとっては、中国古典籍を学ぶことは、軍略を学ぶためだけではなく、
治世観や、為政者のあり方など、そのまま政治につながっていったのである。

数々の書物や歴史を学ぶなかで、家康は
「力をもって力を制す」だけでは、結局、不幸な悪循環を繰り返すだけであることは熟知していたのだと思う。最後までその在り方にも悩んだであろう。
兄弟すら競い合い滅亡しゆく歴史の流転のなかで、家康は天下を統一してからも、いかにして長く泰平を保つか、人の心を平和に保つかを日々熟考し、羅山らと晩年までも講義を受け学んでいた姿から、彼は、確かに「覇王の家」という司馬遼太郎氏の題名の通り、覇道で天下を統一したが、そこからの王道の道を模索していたのだと思う。

統一したとて、大将軍としてあがめられたとて、少しも満足してなかったのである。それで永年の安泰は得られぬことは歴史からも、過去自分のみてきた戦国武将からも知っていたのであろう。

ここから必要なものは「学」であると。正しき道を見極めるために。それは為政者のみならず、庶民にいたるまで、「学」を。
人類の遺した知の書籍を広める印刷事業がそれを物語っているように私には思えた。

最後にパスカルの『パンセ』より
「いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであろう」

最後まで、ひとりの人間だった家康。
人間らしく、最後まで、道を求めていたいと学び続けた、等身大の一人の人間として挑戦し続けた家康を偲びつつ。

(余談)
仕事と介護をしながらのこの学びも、あと少しで大河の放送終了と共に終える予定で、今回もそうなったけれど、やはりなかなか時間のないなかで、論理構成や、思索のまとめをノートに書いてからPCにという流れにはなかなかできず、流れがかなり脱線してしまって、、情けないけれど、これは自分の学びのメモ的なものでもあるので、間違いもあるかと思います、本当にすみません!!

2023年10月26日、ついに松本潤くん、クランクアップの報!!
最初に公式からのその発表をみたとき、安堵からか「クランクアップ」をうまく話せず「クランラップ、、」などと同僚に言ってしまうほど、うれしかったのは先日。
潤くんがどれほど大変ななかで、日々撮影に通っていたか、自己鍛錬のような厳しい日々を過ごしていたかと、、もちろん彼なりに仲間とリフレッシュしたりもしていたとは思うけれど、もし自分がその立場になったらプレッシャーでへこむこと必然!
すごいなぁ、えらいなぁ、、、もはや母親を通り越して、祖母のような気持ちになっていて、ただただ尊敬。。

私も自分の道をがんばろうと思う日々で。
嵐はやはり、私の戦友。社会の厳しいなかで、ともに歌い、笑い、涙し、生きてきた同時代を生きる、尊敬する友人。
ひとつの大きな仕事を成し遂げた松本潤くんの、少しでもこれからも力になれるように、大河の応援ツイも楽しみつつ、最後までやり抜きたいと思う!

それにしてもFC動画のメッセージの、満面の笑顔の潤くん、本当によかった。。元気で。あんな笑顔がみられるなんて、ファンとして幸せすぎる。
元気でいてくれたらそれだけでうれしいものです(祖母かい!)

これから事務所もどうなっていくのかだけれど、いろんな変化があっても、彼らのエンタメを愛する気持ちが揺らぐことはない。
雷雨、嵐が去り、雲間からはやく光がさして、明るい未来になっていくように。自分に何ができるかわからないけれど、ファンが楽しくしてることが一番だと思うので、今日も明日も、楽しみを発見しつつ、日々歩こうと思います!
大河撮影、お疲れさまでした!!全スタッフの皆さまも!きっとここから最終編集などもあるでしょうから、、どうかお体大切に。。
いい作品を本当にありがとうございます!!

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