家康への道~歌舞伎の起源と江戸初期

新しいものが生まれるとき。そこには必ずそれが生まれる土壌がある。
大きなうねり、人の渇望がある。
その時代の人々のエネルギーという土壌ありて、生まれたものが「かぶき」である。
かぶきが生まれた時代。
戦国の世が、信長、つづいて秀吉によって平定され、平和到来という安土桃山時代の潮流のなかで誕生をみている。その流れのなかで、2点にまとめて考察したい。

一点目は、庶民発という点が大きな特徴である。「舞」ではなく、「踊」。舞という上層の貴族階級の背景で完成したものを採用して生まれたものではなく、庶民の生きていくリズムのなかで生まれきたものであることが特徴である。
かぶきは、地域の踊りや、念仏踊という庶民の舞踊に発して、その宗教性を脱した小歌踊に発展していき、のちに新輸入の新楽器三味線を伴奏として、新しく発展していった。

しかし、歌舞伎成立の直接の母体となったのは、一般的に起源を「ひとりの女性発」のように記載している書物がほとんどである。

こうである。歌舞伎は1603年春、出雲阿国(いずものおくに)が北野天満宮の境内で「かぶき踊り」を踊ったのが始まりとされ、その出雲阿国は出自などは諸説あるが、出雲大社の巫女を名乗り、当時の若者の間に流行した南蛮風の衣装に飾り物や刀を身に着け、男役に変装して舞台に登場し、

その時代に傾(かぶ)いた(新奇な、という意味で歌舞伎の語源とされる)服装や大胆な踊りが京都の町の人々の間でたいへんな人気を呼び、
阿国が都から姿を消してからも、四条河原でそのまねをする女かぶきの一座は、後を絶たなかったといわれている。彼女を模倣する芸団は京洛の地で興行したばかりでなく、続々と地方を目指して下っていってもいる。

『慶長見聞録案紙』には
「今年(慶長八年)春より女かぶき諸国にくだる。諸国に女かぶき有」との記載。出雲阿国の一座も地方に出て言っている。1603年以降、女歌舞伎の興行と抜群の人気沸騰は、全国津々浦々にまで広がり、清須、名古屋、桑名、駿府、信州など、主として城下町に来演した記録がある。

このように全国いたるところで、華やかな女歌舞伎の舞台がくりひろげられていたことは、この時代における町人文化の上昇と開花とを象徴する出来事といえた。
「都の春の花盛り、歌舞伎踊に出じようよ」という、浮きに浮く大衆の心情は1600年の関ケ原合戦以降の、世の中が平定されていくなかで、出来上がっていったのが歌舞伎といえるのである。
平和な状況なくして、ここまでの文化の発展はなかったであろう。人の心に明るさが射してきたからこそ、生まれた歌舞伎だったのである。

だからこそ、改めて、この出雲阿国こそが「かぶき」の始まりとされているが、彼女がその踊りを生み出したその背景には、安寧の世と、民衆の大きな文化現象の萌芽が先にあり、各地に踊りが誕生していたことはここでは、記録しておきたい。

彼女が踊りをはじめたその数年前から京都の五条河原は、若衆の舞踊団や芸能の見世物としての盛り場所的様相を呈していて、その当時の踊姿は、「洛中洛外図屏風」などにもみえ、二階座敷で踊る舞姿の若衆や、「京洛図屏風」では六条の町中で「ややこ踊り」のような踊りをしている少女もいる。

つまりは、彼女はひとつの象徴ではあるが、その背景には民衆の大きなうねりが存在していたのである。その象徴といえるのが「風流踊り」である。

中世以前は専業の芸能民のみが、芸能を行っていた。
平安時代の頃、「風流」といえば、「風雅な趣」「みやびやか」の意の言葉で、自然の美しさに人工の巧みを結合させたところに生じる美を愛でる評語であった。
11世紀以降は、華麗な装束や祭礼、法会、歌合わせなどの場で行われる華麗な飾りもの、造り物を指すようになり、
だんだんと、これらはれやかな装飾的衣装を着たり、異形に仮装したりした人たちが囃子物(はやしもの、拍子物)を奏しながら行列し、
あるいは踊に興ずる現象を指す用語へ。
造り物を指す言葉から、芸能の面が拡大して認識され、「風流踊」という芸能へと発展していく。

1477年の応仁の乱終結以後、京都、奈良、大阪を中心に、宗教行事に伴う芸能として、念仏踊りと結び付いた風流踊が各地でさかんに行われるようになっていったのである。

当時の風流踊は、中央に花を飾ったり人形などの作りものを載せた巨大な風流傘を立て、そのまわりにたくさんの人々が輪を作って踊る。
踊り手は灯篭や、手桶などを頭に載せ、はなやかな揃いの衣装を着、同じ扇子や花枝などと手にして、振りを揃えて熱狂的に踊り狂ったとされる。

このように町中で流行した風流踊は、しだいに武家、公家、僧侶らをもまきこみ、文字通り、貴賤が相交わって盆の行事に興じて、非日常的な一時の享楽を楽しんだのである。踊りは、つねに、歴史とともに存在していたのである。

扮装の華美、軽快なリズム、歌のおもしろさ、当代性などを「踊る」人と「見る」人とがともどもに楽しみ合い、
この風流踊の芸能が、のちに、観賞用の芸能に移行していく源泉となっていく。中世末には都のみならず、風流踊は地方の村々まで波及し、全国的な大旋風をまきおこしていく、奈良踊、伊勢踊、岡崎踊、大和踊、、

この風流踊の流行の様子を、きわめて具体的に、現実に観るように、伝えるの絵がある。
私も徳川美術館で、なによりも目を引いた絵であった。
入口から入ってすぐの、戦のだんご串のあたりに、それは展示されていた。

1604年8月中旬、豊臣秀吉の七回忌を記念する催しとして、将軍となった徳川家康の発案で行われた祭礼図屛風
「豊国大明神祭礼記」である。
そこでみれるもの
・上京から300人、下京から200人の踊衆がでて、百人ずつが組になって大きな輪になり、中央に立てた風流の花傘や鉾をめぐって踊る姿
・踊の輪の外側には金の団扇をもつ500人の庄木持(しょうぎもち)。
・金棒を持つ500人の警護役(町衆)
・その周囲に外国人を含む多数の見物人
身分の貴賤を問わぬ老若男女が、競い合ってはなやかな衣装を着飾り、歌い踊り狂う姿は、まさに近世芸能の開花を告げるような、壮大な華やかさ。
芸能は神仏に奉納するだけのものではなく、また一部特権階級のものだけでもない。浮世の生活を享受する大衆自身のものであることを、当時の京の人々は実感し、楽しんだ。地方でも歌舞伎を生み出す素養はあったのである。

ここから、歌舞伎の特徴の二点目として、江戸時代以降の形態の変化を書きたい。

この全国的流行を見せた風流踊は、徳川幕府による新統治体制の確立とともに、終焉していっている。つまり風流踊は大衆が「演じる」参加芸能から
「見る」鑑賞芸能へと変化してくのである。

幕府の歌舞伎対策の一環として、歌舞伎は芝居町という特定の場に囲い込まれていき、歌舞伎をこうして芝居町の舞台の上に限って認めるという流れのなかで、興行の成熟にもなっていき、劇場の芸能となっていった。
もちろんその後にも貴顕の屋敷での上演は質的に変化しつつも行われていたようである。

歌舞伎の創始者とされる上記で紹介した、出雲阿国の時代の頃は歌舞伎といえば「舞踊」を見せるのであったが、それが徐々に発展して、
「狂言」と「舞踊」のふたつから構成されるようになっていった。

歌舞伎における狂言は、能における狂言のような、滑稽な劇をいうのではなく、
ストーリーのある劇の総称。
一方、舞踊は「所作事」ともいって、長唄や義太夫などの伴奏にのせて踊りを見せるのので、能・狂言を題材にしたものも多い。
また、狂言は細分化され、江戸時代の現代劇としてつくられた「世話物」と、江戸時代に戦国時代などを振り返ってつくられた「時代物」、そして明治時代につくられた「新歌舞伎」の3つに分けられる。

また江戸時代は幕府批判に見える演目の上映はご法度だったため、別の話のふりをして、例えば「鎌倉三大記」の時姫は、豊臣秀吉の妻となる千姫をさし、北条時政のモデルは徳川家康であったりと、モデルがある作品もあるのである。

このように発展してきいながらも、江戸の時代になっても、歌舞伎は庶民の娯楽で、建前として武士は歌舞伎などを観ず、能楽を観ることになっていた。武士は能楽。これは後述。

しかし、大名屋敷では藩主の江戸参府を祝うために集まった近しい親族による饗応の席で歌舞伎が上演されていた記録もあり(1679年津軽家)、その他にも17世紀後半からいくつもの大名家の記録に、藩邸での歌舞伎の頻繁な上演が記録されており、歌舞伎と並んで、もうひとつの代表的な近世芸能の人形浄瑠璃も上演されていたのである。

大名らにとって、公的私的な生活の中における饗宴の場での上演と、私的な生活のなかでの娯楽の上演として行われ、心を慰めてきたのである。
そこは今回、勉強して驚きでもあった。彼らもまた、歌舞伎の魅力を知っていたのである。実際に芝居町に足を運ぶことができなかった将軍家や大名家は、座敷歌舞伎として、歌舞伎上映の場が存在していたのである。

庶民のなかではどう歌舞伎は変化していったのであろうか。
江戸元禄時代の歌舞伎の芝居小屋では、朝から日没まで休みなく演目が並んでいて、盛況であった。
定式幕(じょうしきまく)~劇場に常設されている引幕で、歌舞伎座は左から黒、柿色、萌黄色。これが江戸時代は幕府公認の芝居小屋の印だった)もしっかりと飾られていた。
テーマも、江戸時代の主従関係や犯罪などがテーマであることが多い。

江戸時代はしかし、最初は女性が演じていたこの歌舞伎が遊女歌舞伎が流行ってしまい、1629年にはその風紀の乱れを重くみて、女性が舞台にあがることを一切禁止し、他国もこれにならったことで、女性による歌舞伎興行はなくなっていったが、3代将軍家光は元服前の若衆の歌舞伎は認めていたが、それでも風紀の乱れがあり、家光が亡くなると、成人男性だけが演じる野郎歌舞伎のみが許され、そこから技芸や、内容を充実させることで見物客を満足させるという動きへと変化していくのである。
江戸の庶民にとって、観客の花道から登場する俳優は、自分たちの英雄でもあり、大盛況だったのである。

出雲阿国の歌舞伎では、主演の男が茶屋遊びをして女と戯れるといったバラエティのようなものから、現実的日常的な世界を多く題材にし、芸能の質を現代も高め続けているのである。

能や狂言に並ぶ、伝統芸能として生きている歌舞伎は、実に見事な世界観であった。

歌舞伎の発展のなかで、近世の新しい演劇の始まりとされる、能のような「仮面劇」ではない流れが生まれたことも大きかった。また歌舞伎には「ワキ」と呼ばれる役柄もないのが、能と異なるところで、舞台装置の発展やセリフのよりきめ細かさの描写が発展していったのである。

さて、家康について。
家康は、能・狂言をとても愛していたことも、ここでは記載しておきたい。

能もまた能楽師が地方に分散していた際には、各地の地方大名たちがそれぞれに地方の能楽を大切に庇護していたので、家康もまた、今川氏の人質時代に今川義元が庇護していた能楽師と交流があった。

それまでの権力者は、自分たちの祭儀や楽しみのために能は催し、秀吉も能楽を愛し自ら舞っていたが、それを統治の方法、哲学にまで昇華したのは、家康といえる。

家康は無類の能好きであった。関ケ原に勝って天下を取ると、秀吉が直属にしていた大和四座(観世・宝生・金剛・金春)を大坂から駿府に移させた。そして能楽は公式行事で演じられる芸能「式楽」とされ、武士の正式な教養種目となって、
具体的には、全国の大名に習うことを命じ、能楽堂を建てて能楽を演じ、能楽師を雇わせた。
そして家康は、江戸城中に毎年全国の諸大名を集め「翁」を演じさせたことは有名である。実際に、家康は狂言の新作まで作ってもいる。

家康は文化面にはあまり興味のないような、学問好きのイメージがあったが、こと「能楽」は熱心であり、やはり「舞い」には、家康でさえ熱中させる魅力があったのだ。いつか、彼が特に愛した「翁」の内容も勉強してみたい。

介護の合間合間で、書いてきたため、今回はさらに構成がまとまらずで申し訳ないが、改めて紐解いた、歌舞伎や芸能の道は奥深いものだった。

能・狂言と、歌舞伎。この戦国時代を大きな分岐点として、成長していったのは、やはり、それを愛した武将、そして民衆ありて。彼らの躍動感が伝わってくるような学びであった。

人生において、何が大事か。
それは何を成したか、人の心に何を残したかであると私は思う。
その点で家康はが成したこと。文化が成熟し、栄える土台もつくった。200年続いた戦乱を終わらせた、安寧の世を作ったことだ。もちろん、鎖国により発展が遅れたことや江戸時代は人口も増えず、食料危機もあったことなども言われているが、それでも無用に人の命が落とされることのなかった時代をつくったことは大きい。

文化に成熟の時間を与えた家康の労苦に、想いを馳せつつ。最後にベートベンより。耳が聴こえないなかでも演奏を続ける人生を選ぶ彼はこう叫ぶ。

「僕は運命の喉っ首をとっつかまえてやろう。へたばってなんてしまうものか。あぁ、麗しきかな人生、千倍も生きるとは。」
p86「ベートーヴェンの手紙」岩波文庫

不屈の忍耐で、人の何千倍生きた家康を、雨音のなかで偲びつつ。

(余談)
大河ドラマに様々な人間が登場して、ますます大きなドラマになってきているなかで、歌舞伎俳優の中村勘九郎さんが出て来たときがなんだかとても嬉しかった。
現実のなかで、松本潤くんと交流し、一緒に過ごしてきた家族の方と聞き、私はこの大河で、楽しんでいるとはいうものの、その重責に疲れてはいまいかと、日々心配もしていたので、
本当に側でこうしてあたたかく見守る人が増えたことが純粋にうれしかった(絵にもしてみた!)
潤君が好きな歌舞伎ということで経験までに観たのだが、本当に感動した。
きっとこの大河がなければ、能にしても歌舞伎にしても、
実際の私の生活は仕事と介護で回すのにいっぱいいっぱいなので、きっと行くことはなかったかもしれない。
改めてこんな機会をくれて、感謝でいっぱいです!

浜松の行列ももうすぐ。日々天候を見ながら、無事故ならそれだけでも大成功!ただただ観に行かれるみなさんが安全で楽しいものになるように、潤君たちも元気になれますようにと願っています!

推し活を頑張っていますが、嵐のみんなの幸せを見届けたら、
私は休日は子ども食堂に戻り、仕事中心にまた戻る予定です。SNSはここまではせず、子どもたちの為にもっと時間をさいて、残りの人生をそこにかけます。それが私を育ててくれたひとたちへの私の決めた恩返しの道。

嵐の歌に励まされて、嵐のみんなは戦友と勝手に思っていて。その戦友が幸せなら、それで大丈夫!いつかどこかで何かの力になりたいと思っていたので、ツイートの難しさは痛感しますが、大河ドラマにいい風を送れるようにがんばります!何も力になれなかったファンとして、せめて、今。

今、雨音がきつくて、でもそれもうれしい。5日が晴れる原因になるなら。
すべてに意味はある。ただ前をみていく。
大河の日々の無事故と、素敵な作品になるように、それを願いつつ。
お疲れ様です!!

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