家康への道~家康にとっての学問

ソクラテスは語った。
「無知とは、自ら知らざることを知れりと信ずることである」(『ソクラテスの弁明』岩波文庫p36
不正な死刑の宣告を受けてなお、人類のある種の傲慢さ、無知への警鐘を説き、真理を求め続けることを訴えつづけたソクラテス。
彼の「勉学は光であり、無学は闇である」との言葉は、何千年経った今も、人類の課題として、目の前にあり、無知から生む惨劇を無くしたいとの古今東西の英知の人たちの努力を思う。

その英知を知ろうと、学問を求め続けた人物とは。戦国時代の信長・秀吉・家康ら、戦国武将のなかで、最も希求した人物とは誰であろうか。
全員の戦国武将までは調べきれてないながらも、徳川家康の学問への生涯を通しての探究心、最晩年でも世の中の様々を知ろうとしていた求道の心に驚きの連続であった。

山岡荘八氏は、家康が信長・秀吉と決定的に違ったところは
「信仰心の厚さ」であったと書き残しており、確かに日々念仏を写経していたところからも、家康は純粋に信仰の心をもっていたと思う。

他の歴史家は、家臣への扱い方が家康は違ったから天下を取れたとする説もあったりと、幾多の歴史家や研究者が彼らの違いを論じているが、

小和田哲男氏は「家康が読書家だったこと、特に歴史の本を読んできたことにある。家康は歴史に学んでいたのである」(『戦国大名と読書』p220)
と分析している。

歴史を学ばずして、人の本質は知れず、未来も拓けないということは人類の得てきた教訓でもあるが、家康はこの戦国時代にあってそれを実践してきた人物であったといえる。

先を走った信長・秀吉のよいところ、悪いところをしっかり見て、よいところを伸ばし、悪いところを修正することによって、260年以上続く長期安定政権を樹立することができた。日本の長い歴史にあって、特筆すべき長期安定期。その土台は、過去の歴史を謙虚に学ぶ、家康の学問にあったように思える。

むろん、一部をのぞいて鎖国するなどの政策により、あの江戸時代は、世界から取り残され、村社会や、お上には逆らうなという風潮、また女性の立場が弱くなる等の日本社会の流れを作ってしまったという意見もあるが、

すべてを自給自足で国を動かしていたというのはもはや奇跡でしかなく、あらゆるものを無駄にしない時代、
そして、日本が現在も世界に誇る、独自の文化、モノづくりを大切にする時代を再構築していく時代だったと思う。

今の「文化力」はこの江戸時代の、戦乱なき長き安寧の世があったればこそ、再び輝かせることができたのではないだろうか。
ものごとには、いや、全てにプラスとマイナスが存在することは自然の理でもあり、家康や江戸時代の評価とて、それは免れまい。

しかし家康はさすがに200年以上先の世界の流れまではよめなかった。あの幕末である。外国と日本のあり方についてどう考えていたのかは、また学びたい。

さて、学びを愛する、読書家の家康が勝利を得たということのひとつの証左として、関ケ原がある。
1600年9月15日、関ケ原の戦いで美濃赤坂(岐阜県大垣市)の陣所を出た家康が、最初に本陣としたのは桃配山であった。

その山が守りに適していたというわけではなく、その名前、その名前の由来が理由であった。
この桃配山というのは、古代の壬申の乱のとき、天智天皇の弟・大海人皇子がここで将兵に桃を配り、戦いに臨んで天智天皇の子・大友皇子を打ち破ったという由緒ある場所だったのである。

家康はこの故事を知っていて、自分を古代の勝者である大海人皇子(天武天皇)になぞらえて、
不安感でいっぱいの武将たちに対して、「勝てる!!」と思われるパフォーマンスをしたのである。
本来ならば西軍の石田三成がどう考えても勝利する軍の数、布陣であった。近年、ドイツの軍関係の方に陣の配置図を見せたところ、明らかに「西軍が勝つ」と彼は洞察したほど、西軍が圧倒的だった。
にもかかわらず、どうして家康は勝利できたのか。
家康がこうして故事に習って、士気を高めただけでなく、この戦いに至るまでの周到な根回しの書状をどれほど書いて送っていたか(古文書の記事参照)。その熱意。必死さ。
そしてそれが的確な内容、迫真の言葉で、読んだ大名たちの心をうち、こちら側についたほうが益があると思わせたのであろう。
石田三成は確かに賢い人物ではあったが、現代でいう事務に特化した人物でもあり、人心を掴むということの深さまで知り得ていなかったのではあるまいか。

しかして、石田三成らの天下ではなく、徳川家康の天下を望む気運をつくりあげたのは、賢さや、策だけではあるまい。なにかそこまで人の心を動かすものを家康はもっていた。

その源を、私は、彼の読書、歴史への造詣の深さにみてしまうのだ。

それは知識というよりも、歴史や先人への「畏敬の念」「謙虚な心」ともいえようか。
何者も、過去の者も、現在の者に対しても、決して「あなどらない」という姿勢が、彼を天下人にまでのぼらせたように思える。

またこれは別の話にはなるが、彼は戦国武将の中では一番といってよいほど占いを用いていたことで知られ、最も頼りにしたのが閑室元拮(かんしつげんけつ)すなわち三要は、
徳川家康に「毛詩」を講じたりする僧侶であったが、関ケ原の戦いにあって、この元拮が家康の求めに応じて、出陣の日取りを占っていた。
この元拮に関する本を探していたら、京都の「圓光寺」にたどりついたが、それについてはまた後日、その家康の印刷業を主題として考察したい。

1605年家康は将軍職を子・秀忠に譲って駿河城に隠居した時、
本田正信に次のように語ったとされている。

「我等などは若き時分、世上事いそがわしき頃故、学問などは打懸り居事ならざるに付、一生文盲にて年をよらせたる也。
さりながら老子の言葉の由にて、足る事を知る者は常に足ると云古語と、
仇をば恩を以て報ずるという世話と、
此二句をば年若き時分より常に忘れずして受用せし也。」(『駿河土産』)

戦いに明け暮れた家康は身を入れて学問をする機会がなかったことを悔いるとともに、『老子』から得た「足る事~」の学問知と、「仇をば~」の世間智とを、長く処世の指針として守ってきたというのである。

もちろん文盲というのは謙遜であり、戦国武将としては、家康は群を抜いた読書家であり、学問好き、とりわけ儒学と兵学及び歴史好きであったと知られている。
今川人質時代、禅僧であり偉大な軍師でもあった太原数孚(たいげんすうふ)つまりは雪斎に学んだであろうことは、別の記事にまとめたが、それが彼の根底にはずっと自分を形成する原理のひとつの学びとなっていたと確信する。
しかし確かに彼が実際に学問にしっかりと向き合えたのは、その後半生以後ではある。

家康は武力をもって天下の覇権を掌握したことは間違いないが、家康自身武力で政権が維持できるとは思っておらず、儒教に基づく治世の必要性を痛感していた。

1593年には学識者・藤原惺窩(ふじわらせいか)から『貞観政要』(理想的な為政者のあり方を儒教的視点から示す書物)の講釈を聴聞し、関ケ原直後からも彼らから講釈を受け続け、
1604年よりは京都二条城にて、林羅山らとも問答を繰り広げている。
大坂の陣の終結後に、幕府体制確立のために発布しようと考えていた「武家諸法度」などの法度類制定のための参考資料として様々な書物を書写、献上させているのである。また晩年には和書、神学、仏教への興味も広がり、慶長19年には『伊勢物語』や『源氏物語』『徒然草』、『古今集』などの講釈も林羅山から聴いたりもしており、その探究心の高さ、関心をよせたものへの熱心さは晩年においても顕著であった。

もちろん、武家社会のあり方を考察する上でも最も愛読していた書物は『吾妻鏡』であることはいうまでもない。家康は源頼朝を尊敬し、追慕し、常に源頼朝のことを話し、源頼朝の悪口を言う人間をたしなめたといわれている。鎌倉幕府を意識していた家康。

人が、過去の歴史から、ここからの未来図を的確に描くように、家康は常に未来をみていたのだと思う。自身が作る未来に、決して過ちのないよう。無駄な争いが二度と起こらぬように、自分の手で、戦を最後にする覚悟だったのだと思うのだ。その為には、学問からの裏付けの必要な戦いもあった。
大坂の陣を少しであるが学びながら、その徹底的な姿勢の背景を今、私なりに消化しようとしている。

「家康の学問の目的は、政治上の目的(法をつくる、国をつくる土台など)を達成させる一点に集中され、たくみに利用しているところに特色がある」(徳川家康事典・新人物往来社p282)
との見方もあるが、
それは一断面であり、彼は本当に学を愛し、学に人生の答えを求め、学を通して過去と対話をして、自分の願う未来を、江戸を構築していったのだと思う。己の進む道を学問に求める、先人と対話する、これだけでも偉大な武将だったのではないだろうか。

聡明に国を治める、法を整備する。確かに先日石清水八幡宮にて家康の書状を直接みて、関ケ原の直後すぐに、この京都八幡付近での治安の安定を求める、放火などを禁じる書状は実に、急ぎこの国を法律でもって整備していかなくてはという焦りのような、ひっ迫感を、その筆にみて、家康の覚悟をその文字から感じていた。
政治目的であったとしても、学問を基盤としたことはとても重要である。

自分の提唱する政策が正しいかを、合理的に納得させるためには、先人の学問は必須であり、
治世を行う上での、冷静な感情や理性的な会話は、学問を学び抜いた指導者でなければ、成しえないと確信する。なぜなら、学は忍耐を培うものでもあるからだ。
家康の忍耐力は、学からも培われたと思う。

そして私は思う。彼の人生は、政治の為だけにあったとは思いたくない。政治は彼の背負った大きな使命でもあったが、
彼の人生は「人をどうみるか」を問うてるように思えてならない。「どうみるか」とは、人を、政治的側面だけではなく、文化面からも、精神面からも、生活背景からも、総合的に、多角的に、人を知ろうとしていたように思うのだ。
つまりは、目の前の人のみならず、過去の人物の生きざまを学から知り、これからの人が生きていける安定した世の中、戦をせずとも生きていける道を模索していたのだと思う。

「人」を知らずして、「人」の道はつくれまい。

政治面の安泰の道を確立したことは確かではあるが、彼の成したことは、人間が人間として暮らし、自然を眺め歩き、その命を脅かされることなく、ただ自分の天寿を全うするという、
「生きる」時間をつくったことが大きかったと、今、とても思う。

もちろん、それは恒久的なものではなかったにせよ、ひとときでも戦乱で苦しみ抜いた時代に出現したことに、なにか希望のようなものは見てとれないだろうか。
ここまで、自分の理想の為に、心労を堪え抜いて耐え抜いて、生きた人物が政治の世界にいたという希望である。

ソクラテスは語る。
「名誉や勝利や勇気による判定が最も正しいとはいえない。
実際には、もっとも優れた判定は、経験と知慮(知)、と言論(理)によってこそなされるのが必然である。」
「言論(理)は、他の誰よりもとくに、知を愛する人がもつ道具なのだ」
(『国家(下)』p272岩波文庫)

古代より、人類の英知が求めたものとは、簡潔に言うと、人の幸福、広くは平和な世としたならば、家康もまた、その道の実現を過去の人たちから知恵を得ようとした謙虚な、そしてただただ知を愛する者だったのだと思う。

圓光寺で彼のお墓に手を合わせていると、そよ風が吹いていた。
ここから見える京は、静かで美しい。戦野ではないと伝えたい。
違った意味で、人は今も、もがきながらも生きていることは変わりないが、そんな私たちに、彼は優しく居てくれるように思う。
「仇をば恩を以って報ずる」なんと至言。
精一杯生き抜いた彼にふさわしい場所にて。薫風に吹かれ、人を想う豊かな時間。

(余談)
大河ドラマも折り返し地点!
推しである松本潤くんの健康は大丈夫だろうかと日々案ずるファンの一人として、今改めて思うことは、誰かを応援するというのは楽しみであるが、こんなと難しさもあるのか、、ということ。
いろんな意見も当然あるなかで、自分はこう思う!と自由に発言することができるのが現代であるのだけれど、なんと難しい、、ネットは難しい。だから避けてきたし、ネットニュースも避けてきた。新聞や本でしか、基本情報はみない主義できたし、SNSは、信頼できる仲間とのFacebookのみで生きてきました。ツイも本当は嵐の情報を得るためだけでした。

推しの頑張るドラマ、私は純粋に楽しんでいるけれど、
また、ドラマが盛り上がってトレンド入りしてほしくてツイートも連投しているものの、その道は実はちょっと苦しいことが多くて、ここでは詳細は書かないでおきますが、ツイートを削除しなくてはいけなくなったり、怖さを感じることも多々あり、心が折れそうになる。。

見知らぬ人から攻撃され、ここまでして頑張らなくても、いいのかもしれない、ツイートもそんなしなくても、、という気持ちであったところに、心ない同僚から「推しを応援とかって、美男美女の、住む世界も違う人らにそんなに頑張って何になるん?」という言葉にグッサリ。

思えば、勉強、仕事だけを頑張ってきた。友達の為にいろいろ走ってきた人生のなかで、嵐を応援していたものの、三回しかライブに行けてないことからもわかるように、私は仕事が何よりの生き甲斐で、ここまで時間を割く意味は、本当は悩んでいる。。正直介護の壮絶さとの両立で、いっぱいいっぱいなところに、
応援ツイにまで怖い思いしてまで、もう何も背負わなくていいのじゃないか。

そんな時、99.9映画のLVの動画を改めて観る。
そうだそうだ、そうだったな。この仕事を、大変なのに、楽しんでる潤くに感動したんだった。そこからこの応援の道がはじまったんだな、と。

私は、嵐が大好きで、嵐の音楽に励まされてここまでこれて。嵐は大事な友達で、素敵な言葉でいつもいい風をくれている人たち。
活動休止の今、そして大変な騒動にもなっている今こそ、私は踏ん張ろう。
いつも友達に伝えている言葉がある。
「幸せなときは全然連絡とか気にしなくていいから、でも苦しいときは、絶対連絡してね、駆けつけるから」と。
苦しいときこそ、友達でいたい。

一生懸命仕事している潤くんを応援したいだけで、いい風を送れる自分でありたいだけで。それは傍から見たら滑稽であっても、それでもいい。
大変な渦中でがんばってる人間に、恩返しも含めて、ささやかに応援していってもいいじゃないかな。嵐の音楽が好きだし、嵐くんたちが好きなんだよ。
大河ドラマはでも、私は本当に毎回すごく楽しみで、こうして勉強したり、近い範囲内であっても(介護中の為、すぐに駆け付けられるところでしか動けない、、)いろいろ出かけてみたり、リフレッシュしているし、
その新鮮な心で仕事にもむかえていて、楽しく子どもたちと過ごしているのです!
楽しく!応援していきたい!たとえ不本意なことがあっても、はねかえしていきます。なので、同じように応援ツイートやどうする絵で応援しているみなさんもきっと悩みながらだと思うから、大尊敬しています。

「どうする家康」、素敵な作品に出会えて、幸せです。
よく潤くんが嵐のライブで「幸せにしてやるよ!」っていうの、あれは、「今日という日に出会えてよかった」って思える楽しい時間を一緒に楽しもうっていうことだと思っていて。彩のある一日。そういう世界を一緒に楽しむ時間が生活にあるって、ありがたいことです!!
推しの明るい未来は、私の明るい未来でもあるから、いや、大変なことがあっても、そこも楽しんでいきたいと思います!
Enjoy!!

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