家康への道~石川数正出奔を吉川英治氏はどう描いたか

その書は、こうはじまる。
「ーー春の空の下だが、
美濃、尾張のさかい、木曽川のながれも、ひろい広野も、あらしの前の静けさに似て、耕す人の影も、旅人のすがたも、人ッ子ひとり、見えなかった。
妙な平和である。
蝶や小鳥には、ありのままな天地の春だったが、人間たちには、この真昼も、何か、不気味なものがあるにちがいない。
平和の偽もの、偽の平和ーと、まったく影をひそめてしまった庶民たちの猜疑心が、らんらんたる太陽一つを、空におきのこして、なおさら、この地上を、わびしいものにしていた。
『新書太閤記』10巻p243

小牧の戦い前、吉川英治氏が自然とその土地に住む人間の視点から、まず描いている箇所である。名文。
吉川英治氏らしい、庶民の視点。出てくる英傑たちも、虚飾なき人間の心を持つ者として、その波乱万丈の人生を丁寧に描かれている。

たくさんの歴史書を読むなかで、どうしてもその「共に生きていた庶民の視点」を見失いそうになっていた私は、一番敬愛する歴史小説家の吉川英治氏の著作も読み始めるようになり、この大河が家康ということもあり、
『新書太閤記』を手に取ると、やはり吉川英治氏らしいところだが、秀吉もまた、その青春時代の姿に焦点をあてて特に長く描かれていおり、実に生き生きとして躍動感があって、素晴らしく、すっかり魅了されている日々である。
また家康に対する吉川氏の視点も面白い。こう語らせるか、歴史のここからそう読むか、そうしてこう描くのか、、と日々感動なのである。
なにより途中に語られる、氏の歴史観、人物観が好きだ。

今回はちょうど読み進めていたところが、石川数正の出奔のところだったため、吉川氏生誕から130年は経とうとしているが、今なお本屋にて堂々とならぶ天才・吉川氏は、ここをどのように小説にして、何を描いたのかを、紹介し、吉川氏の歴史観、人間観にふれてみたい(今回は短めに・・)

秀吉から温かな言葉をかけて労ってもらい、自分の価値を認めてくれることから、石川数正は家康との間で揺れる。今後の方針を巡って、徳川家臣団とも意見が違うなかで、家康から特に優しさを感じることも薄かった。
そして彼は出奔を決めるのだが、その出奔の夜に心中で回顧する。

「大坂へ出奔しても、自分は決して、秀吉に寄って、身の栄達をはかろうなどとはーーゆめゆめ思いもしてない。
人間の六十にまたがる身が、何で、これ以上の浮雲や虚栄を望もうや。

しかも自分は、周囲の白眼と嫉視の中におかれているが、ともかく、主君家康より信ぜられ、岡崎の城を預かり、一家眷属も、それぞれ、食と所は得ているのだ。
何の不満があろう。
不満は、時代にくらい、井の中の蛙たちの独善的な強がりである。
大坂軽視、挟小な反秀吉の危険思想にある。これこそ、やがては、徳川家を過(あやま)らすものでなくて何であろう。」

ここまでは、確かに若手の家臣団らは、大坂で現実を見ていないことからくる我見があまりにも強かったのだと想像される。実際もそうだったのではないか。大坂その町を、実物をみていなかったのは大きい。そして

「去って、大坂方の一員となっても、自分は、秀吉のふところにあって、浜松と大坂との和親をはかり、ここの三河武士が、家康をして、将来に大きな過失をさせないように、陰で、努めることはできる。

それこそ、自分ならでは出来ない、忍辱(にんにく)の弧忠ではあるまいか。」p358

この忍辱とは、どんな恥や苦しみをもこらえて、心を動かされないことという意味で、彼の決意の強さを表している。

そして数正出奔。しかも彼のみならず、家康の叔父の水野忠重までもが城を捨てて、出奔したことが知らされ、家康はまさに満身創痍。

しかし家康にこう語らせる。


「地震は、揺れるだけ、揺れてしまった方がよいのだ。地底に、空隙(くうげき)を、余さぬように」
左右の者へいうともなく、家康はひとりつぶやいて、この大地震に耐えるが如く、坐っていた。p368

そして、

「伯耆(ほうき)の心は、憎くおもう。けれど、伯耆はやはり一流の人物たるに変わりはない。武夫(もももふ)の行化(ぎょうげ)は侮るべからずーーーじゃ。家康にとっては、大きな損失よ。この損を何かで埋め合わせつけねばならぬ」

として、他人から慰められて心休まるような家康ではないとし、不幸な生まれつきの家康が、まだ誰も考えつかない先の憂いに、すぐさま、心を向けて迅速に対策を取る様子を描いている。

徳川家の独自の兵制軍法が数正により、機密が大坂に筒抜けになることを想定し、甲州から鳥居彦右衛門をよび、信玄の軍書、兵制の文書、土木、経済にかかわるものから、武器、兵具、陣具など一切を取り寄せ、

井伊直政、榊原康政、本多忠勝を兵制改革の奉行とし、
家康は、即刻、研修討議に日々を費やし、信玄流の軍法に創意を加味し、「新三河流軍制」が採用。
そして、通貨制度、交易法、土木にいたるまで、この機会に古い制度を思いきって革新したのである。

そうして、数正によって、容易に捨てがたかった古いやり方を変えられたことに感謝し、こう語らせている。

「どんなことにも、まる損はないものじゃぞよ。・・思うてもみい、どんな災難、凶事に会った場合といえども、まる損というものはない。決してない。」p371

すべてを無駄にはしない生き方。歴史上で起こったことのみを追っていくだけでは、ここまでの視点になかなか凡人の私は行きつけない。
吉川氏の視点により、そのような家康の考えがあったろうと思うとともに、もし違ったとしても、吉川氏の人間観がとても勉強になる。のち天下人となる家康、このくらいの意気込みで一切を変革するチャンスととらえて反転攻勢したのであろう。
この『新書太閤記』でも秀吉にとって最大のライバルとして描かれている。

最後に家康と秀吉の違いについて書かれている箇所を紹介し、終えたい。
「家康と秀吉と二者に相違がある。
家康は、信じられぬ者は人間なりとし、終生、死後百年の計も、その思想に立脚している。秀吉は正反対である。秀吉は、人間を信じ、人間に溺れた。
ーーー後、秀吉は、死ぬ間際には、この家康に、後事を頼んで死んだのである。」p366

この視点から立脚するならば、大坂の陣はまことにその家康の、人を信じ切らないゆえの注意深さが感じ取れるのかもしれない。しかし、調べていくうちに、家康は徹底的に秀吉一族を亡き者にしたわけではない事実も、また今熟考中である。

最後に、アメリカの詩人・ホイットマンの詩より

「わたしが堂々たるものであることをわたしは知っている
それ自体を弁護したり理解されるようにわたしの精神を煩わすことを わたしはしない
自然の諸法則は決して申訳などしないことをわたしは承知している。

わたしがかくあるようにわたしは存在する、それだけで充分だ
もし世界中が誰一人として気がつかないとしても、わたしは満足してすわっている
また、もし一人残らずすべてのものが気付いているにしても、わたしは満足して
すわっている。

一つの世界がわかっている
それは格段にわたしにとって最大のものなのだ
そしてそれはわたし自身なのである」

正真正銘のマンハッタン子で呑むのも食べるのも好きな、いつも人のなかにいるこの詩人は、森羅万象のなかに宇宙の躍動と、自分の躍動を重ねて自由に謳い、愛を叫んだ。
この「すわっている」の表現に、堂々として、石川数正の出奔という大騒動にあっても、ただ自分の道をみつめる家康の、
もちろん吉川氏の創作の世界ではあるが、今の自分も想像する家康の熟慮の姿をみて、古今東西のなにも変わらない人間の真実の人の姿をみて、深い思いを感じている。歴史の醍醐味とはこれなり。

座して熟慮し、大きな視点で捉える家康。
出会った人、起こったこと、すべてを意味あるものとしていく家康の生き方に心寄せつつ。

(余談)
吉川文学との出会いは高校時代。『三国志』を学友から薦められ、英単語を覚える合間に読もうと借りて、電車のなかで読み出し、その魅力的な世界にあっという間に引き込まれ、降りる駅も通過したことも何度もある。懐かしい思い出である。
毎朝5時台の電車にのり、早朝学習に参加していた高校時代。大学もCNN
放送を授業の合間に視聴しにいっては世界を感じ、寝る間際までラジオ講座でビジネス英語を聴いていた。
そんな真面目人間が、、エンタメに触れる時間というのはあまり記憶になく、あの頃の私は、学ぶことがすべてで、友達と切磋琢磨し、どんどんボローニャ大学や、モスクワ大学などに留学していく友達に焦りながら、自分はどうしようかと悩んでいた。
それも懐かしい。

だから、今の推し活をしていることはできるなら同級生に知られたくない心理もあり、でも優しい同窓の友達は、いつも介護に苦心する私を心配してくれていて、「楽しみは大事やで!」と、自分の楽しみも教えてくれたりと、また新しい世界を教えてもらい、楽しんでいる。
みなそれぞれに大変なこともあるなかで、楽しみをみつけていることにも、ほっとしている。

楽しみは大切、ひとは遊ぶために生まれてきたと思うし、それは高校の恩師も常に私に「遊ぶように!!」と言われていた。。できてなかったので反省。。
今、たぶん、人生でここまでの推し活はしたことがないので、ややちょっとこれは推し活なのかな、と思いながらも勉強も楽しんでいる。

私のことはさておき(すでに長文)、推しの松本潤くんの誕生日!!
40歳!自分はたぶん40歳の誕生日も仕事していたと思う。仕事をして、そこで迎えられることがうれしかった。子どもたちのなかで。

「あれになろう、これになろうと焦心(あせ)るより、
富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」

この吉川英治氏の、この一文を届けたくて、今回はお菓子のカヌレを富士山にみたてて、祝い画というのを作ってみた、画としては映えないが、、意味を大事にと自分を励ましつつ、
推しの40代が素敵なものになってほしい。それにつきる!!

大河の撮影も10月下旬ごろだとしたら、あと二か月。
ただただ健康でいてくれたら、それが本当にうれしい。
いくつになっても、色々なことが起こるけれど、この富士のごとく、不動の人に、これからも。
そんな願いを込めつつ。よき一日になりますように!!
いつも素敵な作品をありがとう!!

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