家康への道~碁と将棋の活用術

こんなところまで、家康は!と驚かされることが、京都にいても多々ある。

茶のことを学ぼうと訪れた大徳寺のある坊にて、徳川家康が使ったとされる将棋の盤をみる機会があった。その時からいつか、徳川家康にとっての囲碁・将棋について学ぼうと思っていたが、ここで改めて彼にとっての囲碁・将棋を簡単に考察したい。

戦国大名が囲碁将棋を愛好していたことは多くの居城跡から盤や石、駒が出土していることからもわかり、その範囲は近畿や東海、北陸のみならず薩摩の島津の家臣の記録にも残っていたりと、広く興じられてきたが、
大半は、家臣の囲碁や将棋を禁じていた。
室町幕府の武将の今川了俊は子息に「碁、将棋、双六などの勝負を禁止」とし、各地でも禁じており、「悪友」の類いと見なし家訓として禁じる動きが大きかった。
なぜ禁じたのか。それは中世では勝敗のつく遊びに賭けるのが一般的であったが、家中の武士が足軽に至るまで勝負に熱中して勤務をおろそかにしたり、武具を賭け事に使うことも見受けられたからという。

しかし、中国の教養思想である「琴棋書画(きんきしょが)」の影響が中世以降大きくなり、
公家や僧侶は教養としての囲碁を習熟するようになると、戦国大名もそれを見習って碁や、棋の一種である将棋も愛好されるようになっていったのである。
安土桃山時代に記された駒の制作記録、その名も将棋馬日記は、、公家の水無瀬兼成とその養子の親具が生計の一助として、将棋駒を製作販売していた記録で、1590年~1602年に至る13年間の記録をみると、全体の約3割は公家からの中将棋の駒。
あと約6割は武家からで、発注者は徳川家康、秀忠、豊臣秀次、秀頼ら35名で、武家の発注はほぼすべてが小将棋の駒であり、
その記録から徳川家康は53組の将棋を発注しているページもあり、彼は水無瀬駒の愛好家だったこともそこからわかる。

このように数多くの戦国大名、武将のなかで最も囲碁と将棋に関わりが深かったのは、徳川家康であり、
しかし正確にいうなれば、一流の碁打ち、将棋指したちとの交流に関わりが深い点が注目である。

公家の山科言継の日記によると、
1585年、言継ら3人の公家が勅勘を受け京都を追放され大阪や堺に移住したが、家康の助言があって、勅勘が解かれ、家康から経済的援助も受けて、そこから行動を共にしている記録が残っているのである。
それには1591年3月、上洛していた家康の宿館を訪れ「将棋の会があった」と歓待をうけ、その頃から家康(50歳~)はしばしば上洛して、長期に滞在し、その都度、3,4日に40人ほどの人を招いた大宴会を催している。
1593年4月には10回
5月には9回
9月も9回
招待されたのは公家、上級僧侶、秀吉の武将、大商人、文化人で、
この公家の山科言継が正確な氏名を残しているのである。なぜならこの大宴会には毎回接待要員として、複数の碁打ちと将棋指しが召しだされていたからである。
このような大宴会は1615年まで続けられ、そこから囲碁の棋士として有名な本因坊や利玄坊なども近しくなり、
特筆すべきは1603年4月19日に禁中(宮中)で天皇や公家たちの前で、本因坊ら4人の碁打ちに対局させており、それは時の天皇後陽成の碁好きを知っていたので、巧妙な政治工作だったと思われる。

1612年、家康71歳の時には、ついには本因坊ら8人に最高で50石の扶持禄などを与えたのである。かつて室町幕府時代には将軍が能楽師などの芸能人に褒美を与えていた例はあったが、なぜ家康は碁や将棋の者にまで。。

それは、家康の宴席で召し出された碁打ち、将棋指しは莫大な数であり、
その際、おそらく最初は宴席での雑談や対局中の相手の片言隻語(へんげんせきご)を意図せずに、家康の家臣に洩らしたのであろう。
宴席での戯言、雑談を、彼らは注意して聴くようになったのかもしれない。それこそが家康にとって重要な話も含まれていたと思われる。宴会という解放された雰囲気と酒が入ったうえでの冗舌があったと思われる。盤上の考慮や駆け引きは巧みな比喩となり、例え話を引き出すこともあったのであろう。

公家や僧侶からは政治情報、
大商人からは経済状況、
武家からは軍備と軍事行動、
文化人からは世論を。

この情報収集の役割を担ったのが碁打ちと将棋指しの人たち。
なぜなら、この大宴会の時期はある時期と一致しているのだ。
それは
本能寺の変の前後、朝鮮への二度の出兵前後、秀吉の死の前後、大坂の陣の前など、政治的な大変動の時期と一致しているのである。
家康が多忙で上洛できないときには、本因坊らを呼び出して、江戸城や駿府城で「対局」させたのは、
観戦もさることながら、京の情報をより詳しく把握したいか、入手した情報の裏付けを取りたかったと思われる。

そう考えると、本因坊らに与えた褒美は、約20年間の情報活動へのお礼だったと捉えられる。
家康自身はどこまで碁・将棋を愛好していたのかは一切不明とされ、しかし、戦国大名のなかで最も巧みに、京の碁打ち・将棋指しの人たちを活用したのが家康なのである。
なお、碁将棋のみならず、この間、家康は能を演じたり、観たり、茶会に参加したり、鷹狩など、精力的に京都でも動いている。幼少の秀忠を伴って上洛した際にも宴会を催し、碁・将棋指しを呼んでいる。

彼らに家康が禄や扶持を与えたことは、また
囲碁と将棋が幕府公認の技芸として認められたことを意味している。
碁は前記したように、中世以降公家たちに愛好され教養の一つとして認められていたが、将棋の場合はたんなる市井の遊びのひとつであったのが、遊芸として公認されることとなったのである。
なお、家康の好みからか、公認された将棋は中将棋ではなく、少将棋と称ばれる現行の将棋であった。

家康は、情報収集の為にもなるこの碁と将棋を重んじた。同時期に頻繁に行われていた、茶会も、能楽もその傾向はあるのかもしれない。もちろん芸を愉しむという側面もあったであろうが、実益を兼ねるところが家康らしい。

最後に思う。
家康は、なにか同じものに感動したり、ともに同じ風景を愛でるなかでこそ、
同じ瞬間を共有するなかでこそ、人間同士が急速に仲良くなり、
互いの意識を共有していき、別個に存在する思考の輪がとけあうということを熟知していたと思われる。同じ空間で、同じものを愛でる、その瞬間が千金に値する価値があることを彼は死っていた。
文化のもつその強みを、家康は天下泰平に生かし切ったのだ。
実に見事。

あらゆるものを、生かし切る天才・家康。それは「人」というものをよく見ていたからである。「人たらし」は、安閑として出来うることではない。相手をよく知ろうとする努力なくして成しえない。
人間・家康の本質を知る道は、まだまだ続く。

(余談)
この家康への道の学びも、1年半になろうとしている。なんとか、毎月一回は最低でもまとめたいと思いながら日々に忙殺されてなかなかまとまらず、特に今回は本当は茶道について、家康との関係をまとめるつもりであったが、あまりにも大きな世界で時間がかかりそうで・・
今回のも独自の考察は最後の方のみになってしまったが、いい学びになった。大河ドラマ「どうする家康」でもちょっとしたシーン、場面でもそこに込められている思いが少しでもわかるようになるといいなと思う。

先日浜松で騎馬武者行列があり、松本潤くんの特製お弁当のサプライズに本当に感動した!なかなかできないことを、笑顔で楽しそうにしている彼をみて、元気そうでよかったという思いと、心の大きい人だなと感動した。。

今、彼の事務所がいろいろあることも、世相的にもつらいことが多く、地震もあったりと、世界情勢も考えると不安要素があまりにも大きいなかで、
ただただ、いい方向に進んでいくようにと願う。
それを願う日々で、自分にできることは微力すぎるが、これからのこの世の中を生きていく子どもたちが、少しでも力強く生きていけるようにと、自分の仕事に尽力することが、
私のこれらへの答えであり、それは人生最後の瞬間まで揺るがない、私の道である。
大変な時期に推しが大河主演をしていて、どうして心配でないことがあろう。でも先日の大河ドラマの甲本さんのセリフ
「殿は、きっと、大丈夫」
あれが、、本当にドスンと響いた。私もあの言葉を、あの笑顔で言えるような人になりたい。簡単な言葉ではないからこそ、大丈夫にしていく優しさを有形無形で届けていけたらと思っている。
それは推しだけに限らず、友だちにも家族にも。
推しの大河を少しでも自分も楽しめたらと始めたこの勉強も、偏っているし、ほぼ本からのまとめで、、考察する時間を捻出するのに必死ながら、

きっと何よりも「楽しむ」ことを、嵐くんたちは望んでいると思うから、
苦しくならず(笑)、ただ純粋に「知る」ことを楽しみ、感動し、
その楽しみをもって、子どもたちにも何か還元していけたらなと思う。

嵐くんは、人生を一緒に楽しむ仲間だから。
また一緒に、同じ空間で音楽を楽しみ、遊べる日を願って☆

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