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分岐コンプリートをめざすことの葛藤あるいは初見プレイの魔法(2020/6 月報)

 どうも。シナリオが高品質でキャラも魅力的、加えて分岐などによってキャラの末路が大きく変わってくるようなタイプのゲームの話をしたいのでします。
 その手のゲームを初見で1周してエンディングを迎え、タイトル画面に戻った後、「プレイヤーとしてベストと信じる行動を行い続けた結果としてたどり着いたエンディングにおけるこの結末を尊重したい」という感情と、「このゲームのすべて――すなわちお気に入りのキャラクターにとって最悪の結末を含む――を知りたい」という感情がぶつかり合う、みたいな状況ありませんか。

 ゲームとはゲームとプレイヤーとの関係性で成立するメディアであり、プレイヤーの操作と選択によって進行する形態をとる以上、ストーリーが良質なゲームに対してプレイヤーは強く感情移入した状態でプレイすることができます。
 その状態の初見プレイで一つ一つの選択に悩みながらたどり着いた結末は、実際にはゲーム開発者が作成した有限のコンテンツの中の一つに過ぎないとしても、「自分が選び取った自分だけの物語」のように感じられ、オーバーに言えばゲームを通して一つの人生を疑似体験したかのようにさえ思えるような魔法がかかっている。

 しかしプレイヤーが同じゲームをはじめから再プレイして、初見時にあれほど感動した既読イベントをスキップし、自分の内心に従ったプレイでは絶対に選ばないであろう選択肢をイベント確認のためだけに選択した瞬間、その魔法は解けてしまう。
 後に残るのは、高々有限の選択肢の組み合わせで構成された限りなくプログラム的なゲームの実体と、それを「潰していくべきタスク群」として捉え、さらには「効率的な回収手順」など考え始めてしまうプレイヤーとの関係性。
 かくしてプレイヤー自身の手によって、ゲームからきらめきと魔術的な美が奪い去られてしまう。永久に。

 もちろん再プレイやイベント回収行為自体は決して悪いことではなく、むしろゲームの作り込まれたストーリーやキャラクターを深く理解して楽しむためには絶対に必要な工程。
 特に一人のキャラクターがシナリオの分岐次第で全く異なる境遇に置かれるとき、それぞれの状況に対してどんな反応や行動を取るのか、というのはまさにキャラクターの本質に迫る行為ですが、倫理的には相当サイコな行いであることは疑いない。

 「大好きなキャラクターの全てを知りたい!」「そのためには意図的にキャラクターを破滅させた場合の反応も見なければ!」……そりゃ確かにそういう究極の状況こそ人物の本質というか根底が見える瞬間ではあるでしょうけれども!
 「あのひとが死ぬ瞬間どんな顔するのか見てみたかった」というのは殺人犯の動機として結構イッてる部類ですよ。そういう事言っちゃう倫理観ヤバいキャラは好きだけど今しているのはそういう話ではない。

 なにはともあれ、プレイヤーとはゲーム上で作り込まれている範囲においてゲームキャラクターの生殺与奪の全てを握っている神に等しい存在であり、キャラクターの運命を好きなように変えてしまう力を持っています。
 一方キャラクターの側はそれを非難する権利はおろか、そうした立ち位置であることを自覚することさえできない(一部のメタ的要素を取り入れた作品を除く。加えて言えば、そうしたゲームにおいてキャラクターがメタ視点を取り入れた言動をすることさえ開発者の作り込んだプログラムの範疇にすぎない)。
 旅を同じくした仲間のように思って感情移入したり愛着を持っていたりしたゲーム世界とキャラクターが、所詮はゲーム内の存在に過ぎず、プレイヤーの持つ力がそれらに対していかに一方的かつ暴力的に影響を与えてしまうのか、一度自覚してしまえばこれほど恐ろしいものはない。

 他のコンテンツであればキャラクターの破滅は作者がそのように物語を作った結果ですが、シナリオ分岐を持つゲームに関しては自分がそのようにプレイしなければそれは見られないわけですからね。「開発者がそういう最悪のパターンのイベントを作っているのがいけないんだ!!! あるなら全部見たくなっちゃうのがプレイヤー心理だろ!!! 性悪!!!」などと言いたくなることもありますが、最終的に見るかどうかはプレイヤーの選択。
 そうであるがゆえに悩むわけです。この世界とキャラクターが好きだと信じるならば、その魔法を守るために人生一度きりの体験として大切にしまっておくべきなのか。愛すべき世界とキャラクターをより深く理解するために魔法を打ち砕き、科学実験の如く条件を変えて反応を確かめていくべきなのか。

 なにか結論めいたことが言えるような話題でもないのでこのあたりで切り上げますが、ただ少なくとも言えるのは、こういう葛藤を感じられるほどに卓越したシナリオとキャラクター、システムを備えたゲームが存在することと、それをプレイできることは、まさに幸福そのものだということ。
 加えて言えばこういう体験はゲームというメディアに特有の強みで、昨今このあたりを意識的に取り入れたゲームが増えつつある印象なのはとても好ましく思います。願わくばこの後の人生でもたくさんこういうゲームに出会って、その度に同じ悩みに苦しめられたいですね。

 以下いつもの月報です。

ゲーム

Escape From Tarkov

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 (謎の頭部ファッションに3丁持ちと化した友人)

 6月中はタルコフにどっぷりでした。この記事を書いている頃にはさすがに落ち着いてきた……というか、やろうと思うと相当突っ込んでしまえるし、深入りしすぎると日常生活に侵食して感情まで支配してくるタイプのゲームなので、意識的に距離を置いているというところがあります。

 ゲームとしては「ハードコアかつバランス不安定で理不尽、しかし異様な魅力がある」というあたりの印象は変わらずなんですが、一月以上付き合っているとアプデやメンテナンスに遭遇する機会も多くなり、その度にどんどん開発への不信感が強まってくる。

 いかんせん開発サイドが「現状で問題視しているもの」「問題への対応策と期待される効果」「過去の変更とそれに対する評価」「将来的・長期的な目標」みたいな部分を全然公開してくれない(もしかしたらフォーラムとかをちゃんと読めば開発者が話しているのかもしれないけど、オフィシャルなパッチノートなどでの明言はない)ため、唐突なアプデでバランスが右往左往するのを繰り返しているような印象になってしまう。

 そりゃまあゲームとしてはβ段階なので環境やバランスの変動は沢山あって然るべきだし、都度都度方針や意図など教えてくれる責任なるものもありはしないんですが、開発側のビジョンや理想とするバランスなどの方針が迷走しているように見えてしまい、このゲーム完成に向けてちゃんと前進できているのか……? という不安を感じてしまう。単に小規模開発なので広報にまで手が回っていないというところではあるとは思いますが。

 一部プレイヤー側も関係者の過去の発言や自分の体感をもとにアプデの目的などを各々勝手に解釈している部分があり、一部では解釈の差で揉める光景が見られるなど、さながら神学論争の趣。このあたり見ていて大変しょうもないので、開発側が明確に方針など明言してくれたほうが良いと思うんですよね……

 このあたり、本邦の一部オンラインゲームでプロデューサーなどが定期的に方針表明しているのはすげー良い文化なんだなと痛感させられたところがあります。アレもアレで特定人物への過度な弄り・叩きカルチャーみたいなものに繋がりがちなのが見ていて良い気はしないですが……(過度に叩いてる人がアレなだけで方針表明で露出すること自体は悪ではないのでは?)(それはそう)

Detroit: Become Human

 1年ぐらい積みゲーになっていましたがついにプレイ。このゲーム体験が記事冒頭の話題につながるわけですが、いやあ面白かった。ゲームにおける物語体験の一つの到達点みたいなゲームですね。

 プレイヤーの倫理観や信条を問うシビアで突っ込んだ選択肢の連続と、怒涛の展開で引き込まれるシナリオ展開、実写映画さながらの見事なグラフィックと演技。全く飽きることなくエンディングまで一気にプレイしました。

 シナリオ自体が人種差別……特に米国における黒人差別のそれを下敷きにしたものになっているので、まさに2020年の6月に遊ぶにふさわしいタイトルとなっていた……なってしまっていた部分があり、そういう意味でもかなり強い印象を受けるゲームになりました。
 序盤でバスに「アンドロイド専用座席」があった時点でああこれは人種隔離政策の黒人専用座席そのものだと思いましたが、しばらく後にとあるシーンで「I can't breathe」という文章が出てきた瞬間は衝撃のあまり手が止まりました(同スローガンのきっかけになった最初の事件が14年、Detroit発売18年、そして今回)。あまりにも直截だし、あまりにも”今”すぎる……

 そういう意味ではプレイヤーに求められる文化的教養がかなり多いゲームだという感はあり、自分も感動したと言いつつ相当コンテクストを拾いそこねているのは確実なので、そこは惜しいと言うか悔しいところ。
 まあアメリカ製/舞台としたコンテンツには大変ありがちな現象な(同じくゲームだと「バイオショックインフィニット」あたりもプレイ時に米国史やキリスト教関連のコンテキストを拾いきれなかった実感がある)ので、こればっかりはどうしようもない。コンテンツを楽しむ上で米国史とキリスト教的倫理観は教養としてインストールせよという圧を感じる……

 そういった難しいテーマに突っ込んだシナリオは勿論ながら、それを物語るゲーム部分も非常に良くできていて、なんと言っても操作を通してキャラクターに没入させるのが非常に上手い。
 特に序盤、プレイヤーが操作して体験”させられる”のはお手伝いアンドロイドの日常業務、雑用そのもの。操作のチュートリアルを兼ねているとは言え、なんで崩壊家庭の掃除とか皿洗いみたいな雑用をプレイヤーがわざわざ(都度ややこしいコマンド入力までして)やらねばならんのか! ヤクキメてないでお前がやれ!

 ……というフラストレーションが、そのまま「人間としての知性と意思を持っているにも関わらず、奴隷として扱われるアンドロイドの境遇」の追体験になっている。
 このあたり、「風呂で体を洗う」「牧草を運ぶ」みたいな雑務にいちいち面倒な操作を要求してきた「RDR2」に通ずる設計思想が見えると感じました。ゲームとして退屈で煩雑な要素をあえて取り入れて、そのままキャラクターへの没入感・一体感を高める仕組みとして働かせている。

 他にも、あるシーンでは当初いちいち対象物に近づいて長押しが必要だった行動が、キャラクターの成長に伴って遠隔でワンボタンで解決できるようになるというような場面もあり、とにかく操作によってストーリーを語るのが上手い。「自分の操作によって物語がドライブしている」という感覚を常に感じられるのはゲーム体験として非常に上質なものだと言えます。

 一部選択肢が「味方を救うか自分が助かるか究極の選択」と見せかけて実際には「味方を助けに行ってちょっと頑張れば生還してそのまま元ルートに戻る」みたいなパターンが多くてちょっと決断の重み的に微妙では?という印象があったり、アンドロイド表示するランプそんな簡単に外せるのかよ! とかアンドロイドの武装は原則禁止だったんじゃないのかよ、なんかいつの間にか当たり前に銃使ってるじゃん! とか、細々突っ込みたいポイントはありましたが、そのあたりはまあご愛嬌といったところかなと。

 ともあれ非常に楽しんでプレイしたわけですが、その上で冒頭の問題に突き当たるわけです。もう一度プレイするべきか、せざるべきか。
 ゲーム的にはストーリー上の各分岐のタイミングやそれぞれの結果などを一覧で確認できるような機能が最初から内蔵されており、明らかに再プレイと各ルートの確認を推奨するような仕組みにはなっている……んですが、内容がプレイヤーの思想と信念を問うものであっただけに、それを確認していく作業は自分の信念そのものを否定することにならないか。
 加えて単にゲームとして見た場合、演出の合間の移動時間や固定演出の割合が多いため、確認にあたって再プレイするとなるとそのあたりの時間が単なる待ち時間になってしまい、初見時の素晴らしい印象を損ねてしまう懸念が大きい。

 高評価のうちのかなりの割合が初見ブーストにあるということが自分でよくわかっているだけに、自らそれを壊しに行く勇気は簡単には出せない。やるとしたら細かな演出を程々に忘れた頃にですかね……

Baba Is You

 頭おかしくなるパズルゲーム。基本操作は倉庫番的なノリで、ただし「ゲームのルールそのもの」がマップ内に配置されており、「ルールを動かし組み合わせて変更する」事が肝になるパズル。
 マップ内に配置されている全てを徹底的に利用して、自分の固定観念を捨て去り、システム的に微妙な挙動までも把握して、脳を絞り切る勢いで捻りに捻った果てで解法を見つけるようなゲームですね。私自身あまりパズルゲーム慣れしていないというのもありますが、それにしてもおぞましいまでの難易度です。

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 最序盤のステージを例に出すとこのような感じ。当初「WALL IS STOP」で壁に囲まれているところ、

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「WALL」と「STOP」の接続を崩すことで壁が通過可能となり、

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 バラバラの単語をつないで「FLAG IS WIN」を作ってFLAGに触れば勝利。

 パズル自体の基本ルールはこれだけで、あとは「WALL」など物体を意味する言葉、「IS」のような接続部、「STOP」のような状態部のバリエーションがどんどん増えていくだけ。ルール的にはこれだけの非常にシンプルなパズルではあるんですが、これが非常に難しい。

 先に進めていくごとに要求される解法のレベルが高まっていき、「ルールの文字自体を他の物体を押すために利用する」というようなものを序の口として、想像を絶するトリッキーな解法を次々に要求してくる。

 一応自力で80ステージぐらいは解けたんですが、残りは割とどうにもなりません。ただしゲームとして自然に組み込まれているチュートリアルは非常に見事で、一つ一つのギミックやテクニックについてしっかりと順を追ってプレイヤーに提示してくれるようになっている。なので理不尽さやプレイヤーの操作や知識量などに依存する要素は一切なく、必ずその時点の手札で解法にたどり着くことができるようになっている。そうなると、このゲームを難しいと感じるのはただただ解法に気づけない自分の頭が弱いという話に……。

 ただ数日置いてから再プレイしてみるといきなり解法に気づけてしまうようなこともあり、その瞬間の快感は本当にたまらない。とにかく導入が丁寧で前提知識や操作技術も不要と人を選ばず、パズルゲームらしい「気づき」の快感が満ち溢れているゲームなので、とりあえず一度触ってみて欲しい、というタイプのゲームではありますね。

イラスト

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(制服の下にショルダーホルスターでPB持ってるキャラとか居てほしいなあ性癖だなあと思って描きたかったもの)

 折角買ったペンタブを活かすためほそぼそと。いざ描いてみようと思って改めて対象物を観察してみると「この物体のここの構造はこうなっていたのか!」というような気づきがあって、それだけでも結構面白い……ものの、肝心の絵そのものは頭の中のイメージに出力が追いつかないもどかしさがつらすぎて心が折れてペイントソフトを開けなくなる、という感じの流れを繰り返しています。
 イラストを描けるようになりたいという思いは昔からあったんだから、もっと早いうちから少しづつでも練習しておけば、と思いつつ、よくよく思い出せば昔から同じような理由でちょっとずつ手を出しては折れていたのでどうしようもない。絵にしろ文章にしろ脳内イメージを最低限納得できるレベルで出力できるようになりたいという欲求が常にありつつ、それをできるようになるための努力から逃げ続けてきた人生だった……

まとめ

 この記事内ではあまり深く言及しなかったんですが、6月の余暇の時間は実際には大半タルコフで埋まっており、タルコフの合間に別ゲーという感じで、ゲーム以外のコンテンツには殆ど触れなかった感じ。
 あとはシャニマスですね。これも未回収Trueを着々と埋めていましたが、わざわざ書くほどの話はなく、粛々と良い……という感じ。
 こうして振り返ってみると6月の虚無感が凄い。個人的に一つのゲームをやり続けていると謎の恐怖感と焦燥感に襲われる傾向があり、6月終盤あたりはこの傾向が強くなっていました。
 結果として7月入ってからはあんまりタルコフはやらないようになり、その分色々別ゲーやアニメなど触って充実した感じになっています(結果として新しいものを触るのが楽しくて月報書くのが伸び伸びに)。やはり根っこの性分が浅く広くなんだなあ。

 とりあえず6月分はこんなところで。冒頭のゲーム話はDetroitプレイ以降ずっとモヤモヤしていて、月報自体も書くのが遅れすぎてかなり心の重しになっていたので、なにはともあれ一旦書き出せてよかったです(もう7月折り返してる)

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