論語3

子曰く、人にして不仁ならば、礼を如何せん。人にして不仁ならば、楽を如何せん。

人に仁が無いなら、礼をどうすればいいだろうか。人に仁が無いなら、楽しさをどうすればいいだろうか。それとも、人に仁が無いのに、礼がなんになるだろう、という意味か?


林放、礼の本を問う。子曰く、大なるかな問いや。礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚(いた)め。

林放、礼の本質を問うた。先生は、大きな問いだ、と言った。礼は奢る感じではなくつましく。しかし喪はやわらげるのではなく哀しむことだ。


子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず。

国をつくれているとはいえない夷狄の人たちに君子がいるということは、諸夏、みんながhappyな夏のような状態、つまりいくつかの国が亡くなったことより、すぐれていることではない。


季氏、泰山に旅す。子、冉有に謂いて曰く、女(なんじ)救うこと能わざるか。対えて曰く、能わず。子曰く、嗚呼、曽て泰山を謂うこと、林放の如くならざりしか。

後半部分は、宮崎定市さんの書き下し文。「泰山に旅す」は、泰山の祭りをする、という意味だそうです。季氏は当時力のあった(お金持ち?)の家。季氏が必要の無い泰山の祭りをするのを、止めさせられないのか、と弟子の冉有に孔子が嘆いている。冉有と先にも出た林放は、泰山の祭りについて同じ意見だったのだろう。孔子は季氏を異端だと考えていない。


子曰く、君子は争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下し、而して飲ましむ。其の争いや君子なり。

君子は争わない。必ずねらいを定めてやる。先を譲り、相手の前にコップを置き、その意見を飲ませる。その争いが君子というものだ。


子夏問いて曰く、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは、何の謂いぞや。子曰く、絵事は素を後にす。曰く、礼は後なるか。子曰く、予を起こす者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。

詩経にある、巧笑、美しい目、素顔にあやをなす、というのはどういう意味ですか?絵を描くこと(フィクションのような意味合いか?)は、素地を後にする、という意味だ。では礼は後ですか?ああ、商(子夏のこと)、良いことを言った。はじめて一緒に詩の話ができた。


子曰く、夏の礼は吾能く之を言えども、杞は徴するに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言えども、宋は徴するに足らざるなり。文献足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴せん。


祭ること在すがごとくす。神を祭るには神在すがごとくす。子曰く、吾祭りに与らざれば、祭らざるがごとし。

世に言う、神を祭るには、神がいるように。先生は言った。私は祭りに関わっていないから、祭りに関わっていないような感じにしている。

これは信仰の否定というより、孔子自身の信仰のありかたと言えるか。


王孫賈、問いて曰く、其の奥に媚びんよりは、寧ろ竈に媚びよ、とは何の謂いぞや。子曰く、然らず、罪を天に獲れば、禱る所無きなり。

深いところの心配をするより、ご飯の心配をしたほうがいい、とはどういう意味ですか?違う。天の罪をこうむれば、祈りさえできなくなる。


子曰く、射は皮を主とせず。力を為すに科を同じくせず。古(いにしえ)の道なり。

何かをやる時に、表面だけ見ていてはダメだ。自分とは違うような人にもとけこんでいかないといけない。これが古の道だ。


子曰く、君に事うるに礼を尽くせば、人以て諂(へつら)いと為すなり。

人がそしっても君への礼を尽くすべきなのか、あまり礼を尽くしすぎないほうがいいのか、どっちだろうか。


子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきなり。始め作すに翕如たり。之を従ちて純如たり。皦如たり。繹如たり。以て成る。

ここは分かりません。楽って音楽とよく翻訳してあるけど、普通に楽しいことって意味で前におれは訳した。どうなんだろうか。


儀の封人、見えんことを請う。曰く、君子の斯に至るや、吾未だ嘗て見ゆることを得ずんばあらざるなり。従者之を見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪うことを患えんや。天下の道無きや久し。天将に夫子を以て木鐸と為さんとす。

これは多分君主が死に国を出ようとしたその関所でのことか。多分孔子は駕籠のようなものに乗っているのかな。


子曰く、上に居て寛ならず、礼を為して敬せず、喪に臨んで哀しまずんば、吾何を以てか之を観んや。

人の上に立っているのにおおらかでなく、礼をなすのに敬意が無く、喪に哀しまないような人なら、私はその人の何を観ればいいのか。

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