論語15

子張行われんことを問う。子曰く、言忠信、行篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば則ち其の前に参わるを見るなり。輿に在りては則ち其の衡に倚るを見るなり。夫れ然る後に行われん。子張諸を紳に書す。

子張が何かが実行されることを問うた。言葉が忠信で、行いが篤敬ならば、それは実行されると孔子は答えた。そうであれば異郷でも実行されるし、そうでなければ郷里でも実行されない。何か日常的なことをしているとしても、言葉が忠信で行いが篤敬なのを実感できるなら、それは実行されるだろう、と。

追記。Twitterをやってたときに、最近のWindowsの漢字変換や、Androidのぎこちない動作は、会社組織ひいては社会の末期症状だと書いたけど、そのことは論語のここのこと。


子曰く、直なるかな史魚。邦に道有れば矢のごとく、邦に道無きも矢のごとし。君子なるかな蘧伯玉、邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち巻きて之を懐にすべし。

史魚は真っすぐだ。国に道があれば、矢のようであり、国に道が無くても、矢のようだ。蘧伯玉は君子だ。国に道があれば仕官して、国に道が無ければ、カタツムリのように自分を巻いて懐に隠す。


子曰く、与に言うべくして、之と言わざれば、人を失う。与に言うべからずして、之と言えば、言を失う。知者は人を失わず、亦た言を失わず。

何か言うべき時に言わないと、自分の周りに人がいなくなる。何も言わないでいい時に、何かを言ってしまうと、何を言っていいのか分からなくなる。


子曰く、君子は世を没するまで、名の称せられざるを疾む。

ここは他と矛盾している。孔子はよく、君子は自分に能力が無いということが嫌で、自分が知られないということを気にしない、と言っている。

しかし死ぬまでには名を知られたいというのはあるのか。


子曰く、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所有る者は、其れ試むる所有るなり。斯の民や、三代の直道にして行う所以なり。

私は誰かをけなしたり誉めたりはしない。もし誉めるのなら、そこから何かを言おうとしているからだ。つまりここにいる人々というのは、夏・殷・周の真っすぐな政治からつづいている人々だからだ、くらいの意味か。

しかし孔子は、他の人の悪口を言ったり、誉めたりはよくしている気がする。


子曰く、吾は猶お史の闕文に及べり。馬有る者は人に借して之に乗らしむ。今は亡きかな。

私は史書の欠けたところが分かったよ。かつては馬を持っている人は、人に貸したりしていたそうだ。今はそうしたことはない。


子曰く、人能く道を弘む。道人を弘むるに非ざるなり。

人が道を為していくことができる。道が人を為していくわけではない。


子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。

仁は人々にとって、水や火よりも重要だ。水や火のせいで死んだ人を見たことはあるが、しかし仁のために死んだ人を見たことはない。


子曰く、教え有りて類無し。

教育ということに、差別はない、という意味か。別の意味で訳してあるのもあるようです。

追記。教えるときには、生徒にそれぞれあった教育をすべきだ、という意味か。同じ教育はありえない、というような。


子曰く、道同じからざれば、相為に謀らず。

志す道が違う人とは、一緒に何かをしない。

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