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0916影を踏む

満月の白き光が射し込んであなたの影を踏みそうになる
大森千里/2020年8月号『塔』より

 塔という短歌結社の結社誌であり、店頭にほぼ並ばない本なのだけれど、今回はどうしてもそこから引用したい。
 私は塔に入会していないので、塔読むキャスというツイキャスの配信でこの歌を知って好みだなと思った。しかし、私が想定した読みとは相反したので詳しくここに書く。

ツイキャスは下のURLから↓
気になる人は1時間4分頃からこの歌に関して話しているので参照ください

https://t.co/5V5VBVOH9P

 コメントで読みが違う的なことを言ってるのが私です。それじゃあ行きましょう。




 この歌で私が最も重要視したのは、“影を踏む”という行為にどれだけの罪悪が潜んでいるか。

 日常生活を営む中で、影を踏むぐらい何もない事なのだけれど、この短歌の場合は“踏みそうになる”という表現が使われている。
 何かが起こってしまうのを、主体は感じ取っているからこそ、踏みとどまっている状態だ。影や踏むは恐らく暗喩であり、影を踏むことは何らかの決断を引き止め、相手の人生を狂わせるような事柄なのではないか。
 自分の心持ちとしては引き止めたいが、踏みそうになっているだけで踏んではいない。相手を自分の元に留めて置きたい衝動を、相手を思う気持ち(理性)で抑え込んでいるような形になっている。



 この読みの発生原因として、影踏み鬼(影踏み)の歴史や、鬼の意味によるところが大きいように感じたのでそれに関して述べる。

 鬼、という存在は目に見えない厄災のことを指して使われることがある。霊的なものや疫病、死に繋がることを引き起こす見えない敵として、鬼と言う語を用いていたのだ。例として、その意味合いが反映された慣用句に「鬼籍に入る」がある。

 そして、影踏みという遊びに関してだが、元々は月明かりの下で「影や道陸神、十三夜の牡丹餠、さあ踏んでみいしゃいな」と言いながらする遊びだった。
 柳田國男の『石神問答』で道陸神(=道祖神)は塞神の流れをひく境界防禦の神であるとした。言わば守り神がついてる過信の下、踏めるもんなら踏んでみろと鬼を挑発していることになる。

 影を踏むことにより鬼になる(=相手の護りを破り死に至らしめる)ということに繋がる。影というのは生命そのものなのだ。

 影を踏むことは、相手の全てを奪う罪悪を背負っている。そしてこの短歌は、そのような背景込みで読むべきものがあるのではないかと私は考えた。


 短歌の方に戻る。次は上句“満月の白き光が射し込んで”の部分に言及していこう。

 この短歌全体で1番目立ってしまうのは“白き”とその直後の接続詞“が”なのではないかと思う。
 口語調の短歌に文語が混ざっていることと、文語の雰囲気を少し壊しかねないのではないかと思うほど強い印象を与える“が”が続くからだ。
 ここに違和を呈する人は恐らく“白い”に変わることを望むが、“白い”だと軽すぎるように思う。
 私は今の状態の歌も好みだけれど、歌全体を文語に統一したものも読んでみたいと思った。

 ここで、満月であり、白き光である必然性について考えていく。尚、ここから先は柳田國男の『石神問答』を読む段階でだいぶ疲弊してしまった関係で、論拠が少なく個人的主観によって構成される(許してください)。

 この句で重要度が高いのは、下の句の“あなたの影を踏みそうになる”の方であることは共通の認識だろう。
 月、という表記であると、影という象徴的なモチーフを作る存在としては、いささか力が弱い。満月、つまり満ち足りた完全なものであるからこそ、この主体が影を踏むことが“良くないこと”であるという認識をすることができる原因となったのではないか。

 三日月や半月などの不完全なものでは、引き留めたがっている主体の衝動が理性によって肯定されてしまう。完全だからこそ、主体は理性に従って手を引かねばならなかったのだ。

 次に、白き光についてだ。
 月というのは、水平線に近くなればなるほど黄色、または赤色に見える。
 これは太陽と似ていて、日中の高い位置にある太陽は白く見えているが、朝焼け、夕焼けなどのシチュエーションにおいては月同様に黄色や赤色に見える。(メカニズムが気になる方はミー散乱、レイリー散乱、プルキンエ効果などで検索してみてください)

 白き光ということは、晴れた日の夜で、尚且つ南中高度(それに近しい位置)にあると言える。
 晴れていれば星が出る。しかし星の光は満月の強く白い光によって見えなくなる。満月で且つ白き光を放っているということは、圧倒的な存在であることの裏付けになり、影の存在を強くすることの証明になるのだ。


 この歌は気高い1人の人間のものだ。

 満月のような人、例えばメンターや、強く心惹かれる人間。その人間に導かれるようにして、過去(影)を省みず、主体を省みず、接近を試みる“あなた”がいる。
 主体は自分という存在が“あなた”にもたらせる利益、満月に例えられる人が“あなた”にもたらしている利益を比較し、自分がもう過去の人間として要らない存在になってしまったことを自覚している。

 理性では、今更、引き留めても無駄だと分かっている。影を踏み腕を掴み、過去に縛り付けられたとしても“あなた”の心はもう救いようもなく満月に向かったままなのだ。

 主体は影を踏み、あなたの心を殺してしまうことの罪悪を強く認識することで、衝動を抑え、あなたの最大の喜びを願っている。
 行動に移さない気高さ。それでも未練の残る人間として、影を踏みそうになると言ってしまうのだ。