姫百合協定つまはじき 7章

〇ひとりごと パンクする

 自転車を、パンクさせたことがある。道ばたに割れたガラス瓶が落ちていて、そのかけらが刺さってしまったのだ。その自転車は美咲から借りたものだったので、私はなんとか自分のミスを帳消しにできないかと、無意識にタイヤに手を伸ばした。
前輪のチューブに突き立ったかけらに触ると、痛みを感じた。そのときぱっくりと割れてしまった右の中指の傷は、いまだに幻肢痛じみてシクシクと痛む。しかし、それよりも恐ろしかったのは、かけらを踏んだその瞬間の出来事だ。空気を入れるところかなにかが引っかかるのだろうか、パンクした自転車はがたがたと暴れた。そのとき私の自転車は、足を取られてもう少しでトラックにひかれるとこだった。
だからね、本当は私、そこでゲームオーバーのはずだったの。

〇カミサマの正体

 罰が当たったのかもしれない。
 三原満は、赤いママチャリの前にしゃがみこんでいた。左手の人差し指にできた真一文字の傷からは、赤い血が滲んでいる。

 公民館に併設された運動公園の掲示板を見に行った満は、予定よりも大幅に時間をかけて戻った。由香から借りた自転車をパンクさせてしまったので、みじめな気持ちでそれを押して戻った。八ヶ瀬高校のメンバー達に囲まれた満は、すぐさま自転車の修理に出かけることを申し出た。
「私が行く。ミスしたのは私なんだし」
 しかし、由香が強引にハンドルに手をかけた。
「かまへんて。あたしのチャリやし、自転車屋の場所も知っとるし」
「でも」
 由香は満をじっと見つめてから拳を揺らした。
「最初はグー」
 反射的に目で追った満を無視して、彼女は続けた。
「じゃんけんホイ」
 由香の手はパー、満の手はグーだった。
「ボードゲームはせんのに、じゃんけんはやんのな」
 それは、どういう意味?言葉を迷った満をよそに、由香は話を進めた。
「あたしが勝ったから、あたしの好きにしてええな」
 返事を待たず、由香は去った。どうせ、由香の方が負けたら罰ゲームで自分が行くとでもいうつもりだったのだろう。

++++++

どこかから借りてきた消毒液を持った夏帆が立っていた。こちらに声をかけるわけでもなく突っ立っている様子に戸惑いながらも、満は口を開いた。
「大丈夫よ、そんなにひどい傷じゃないから」
「ダメです。傷口から菌が入ったら指を切り落とすこともあるんですよ」
 妙に頑固な夏帆に押し切られ、傷口を消毒してもらい、絆創膏までわけてもらった。
「大丈夫ですよ。人生、悪いことばかりじゃない」
 夏帆は満の指を撫でた。夏帆の手が少し傷に障ったが、満はそれを表に出さなかった。
「不公平なことってあるじゃないですか、世の中。でも、それは今だけで見てるからなんです。長い目で見たら、きっと『カミサマ』がうまく収まるようにしてくれるんです」
 つい昨日りんごからも同じような話をされたなと、皮肉な気持ちで考える。運を引き寄せるコツなるものを、結局聞きそびれてしまった。
「ね、美咲先輩も知ってますよね。私、すごいなって思って。友情の証も、なくなっちゃったけど、美咲先輩もりんごちゃんも、私に戻ってくるようにしてくれた」
「それは違うよ、夏帆ちゃん」
 美咲は奇妙にまっすぐな目で夏帆を見ていた。それは昨日りんごに対して見せた不器用な態度に似ていた。
「神様がくれたわけじゃないんだよ。ひとりでになんとかなったわけでもない。ずっとりんごちゃんが君のこと守って、苦しんでたんだ」
 じっと美咲の言葉を聞いていた夏帆の表情が曇った。
「苦しんでた?」
「ずっとボランティアで夏帆ちゃんに付き合ってたってこと」
 歩夢と千鶴は戸惑いながら言葉を交わす二人を見比べていた。
「だから、返そうとしてるじゃないですか。私だってそこまで鈍くないです」
「りんごちゃん、私なんか要らないってさ」
「先輩、私のこと嫌いなんですか?」
「話がごっちゃになってる」
 人差し指に巻かれた絆創膏にはもうすっかり血が滲んでしまっている。一度ガーゼに張り替えた方が良いのではないかとも思ったが、夏帆の前でそうするのはためらわれた。
「りんごちゃん本人から聞くまで信じません」

++++++

 歩夢は夏帆を追いかけて駐車場までやってきた。満もついてきている。案内板の配置を確認していたりんごは、三人の剣幕に驚いた様子を見せた。
「りんごちゃん、一個訊きたいんだけど」
「……仕事のことじゃないよね」
「りんごちゃん、美咲先輩のこと好きなの?」
 その言葉でりんごは何かを悟ったようだった。歩夢はついさっきの美咲と夏帆のやりとりを思い出していた。
「なんでそんなこと訊くの?いままでずっと言葉に素直だったじゃん」
 夏帆の表情は定まらず、口に入れたものをどうしても飲み込めないように動いた。
「嘘なんだ」
 嘘なんて、別に良いじゃないか。場違いだと自覚しながらも、歩夢はすねた気持ちになった。こっちの知らないことで喧嘩するなよ。まして姉のことで。
「嘘をつくのは悪いことだよ」
「嘘をつかないといけないように相手を追い込むのは、悪いことじゃないの?」
 夏帆の両手がりんごの右手を包んだ。
「私が悪者だって言いたいの?」
「言いたいよ。いままでずっと言いたかった」
 夏帆の口が油の切れたロボットのようにぎこちなく動く。りんごは夏帆の指を剥がして目を合わせながら距離を取った。
「ごめん。私、職員の人に報告があったんだ」
りんごは一段高くなった駐車場から飛び降り、下の歩道を歩いて行った。夏帆はその縁に駆け寄り、しかし飛び降りはしないでとどまった。歩夢はりんごと夏帆を見比べ、迷った。
「りんご、待って」
 りんごは背を向けたままゆっくりと言った。
「夏帆と私、お守りが必要なのはどっちだと思う?」
 お守り、だってさ。その言葉は自分で思う以上に歩夢を動揺させた。

〇どんな顔にみえた

 入り口の方から自動車のエンジン音がしたので、満は歩夢の手をとって脇に引っ張っていった。夏帆にはどう触れていいのか分からなかった。
「満」
 顔を上げようとした歩夢は、その場で跳ね上がった。その背中から、夏帆がしがみつくように肩に手をかけていた。
「麻子と同じだ。りんごちゃん、かわいそうな子が好きなんだよ。同情して、私だってきっとそう」
「麻子って、夏帆をいじめてたっていう子?」
 歩夢が不思議そうに聞き返した。歩夢の中では金柄祭りで夏帆に聞かされた話と千鶴の話が曖昧に並んでいるだけで、麻子という人物の認識が焦点を結んでいないのだろう。もっとも、満だって状況はそれほど違わないが。
「ずっと友達だって、約束したのに」
「確かに約束すれば、酒匂さんの態度はしばれるかもしれないけど、心や感じ方まで縛るのは無理だよ」
 思わず漏れた言葉を満は口の中で転がした。いつだったか、同じような言葉を言ったことがある。歩夢と電話越しに話しながら、何度目かの紳士協定の申し出を受けたときのことだ。そのときも満は、『私が言いたいのは、人の心を協定で縛るのは無理だってことよ』と言った。
 その言葉でまた新たに何かの回路が繋がったらしい。夏帆は傷ついたような顔になった。
「なんで、ダメなことばっかり言うんですか。じゃあ、どうすればよかったんですか」
 歩夢はますます夏帆にしがみつかれながら、いぶかしげに満を見た。夏帆よりりんごよりよっぽど注目を向けられていることが、満には不思議だった。
「私、ばかだから、いつも失敗するんです。りんごちゃんに気に入られたいのに、反対に嫌われてばかりで。でも、ばかなのってそんなに悪いことですか?ばかな人間には、幸せになる権利ないの?」
 歩夢はぎょっとした顔になった。相変わらず満と目を合わせたままの歩夢は、不思議そうに口を開いた。
「なんであんたがそんな顔すんの」
 そんな顔って、どんな顔?

++++++

 とりあえず美咲に話を訊こうと歩き続けている途中で、由香に捕まった。
「りんご、ええところで遭うたわ」
 由香はりんごたちに起こったことなど知るよしも無く、いつもの気軽さでりんごの肩に手をかけた。今それが厭わしくて仕方ない。
「今週末、台風が来るやんか。それがどうも朗読会にドンピシャらしいねんな。せやから、駐車場と駐輪所の安全確保。職員の人らと相談せなあかんらしいわ」
 りんごの表情を見た由香は、彼女なりになにかを合点したらしく、続けた。
「もしかして、もう駐車場の案内作ったとこか?まあ、そんなこともある」
 そう言っていつかのようにりんごの背中をばしばしとたたく。どうせなら台風が朗読会もなにも、すべて吹き飛ばしてしまえばいいのに。

++++++

 歩夢はいつも、美咲と満と連れだって電車で立花公民館に通っている。しかし、今日に限って満は一足先に帰っていた。千鶴に声はかけていったという話だが、歩夢には自分たちが避けられたようにしか感じられなかった。
「公民館のカレーさ、あれ、鉄の味しない?」
「私はカレーが気に入らなかったら醤油を入れる」
 座席はある程度埋まっていたが、それでも歩夢と美咲はそろって座ることが出来ていた。
「ソースじゃないの?」
「所詮日本生まれ日本育ちだからね。醤油には頭が上がらない」
 会話が途切れ、隙間にガタゴトいう音が忍び込んだ。
「満が私の前で泣いたの」
 美咲は答えなかったが、聞いている気配があった。
「ううん、泣いちゃいないんだけどさ。なんかそう思ったの。夏帆を見てる顔がさ。あんなの、久しぶりに見た」

〇秘密主義

 由香は閲覧用の端末でポータルサイトの天気予報を眺めてため息をついた。
「やっぱ明日台風来るかな」
「難しいところですね。今日の深夜から始まって朝方がピークの予報ですが、場合によっては明日に響くかもしれません」
 千鶴は淡々と答える。朗読会に関してはこいつが言い出しっぺのはずだが、惜しくはないのだろうか。二人は閲覧室を出て、掲示板の前にあるベンチに座った。
「んで、結局なにがあったわけよ、昨日。さすがに空気おかしくて肩こるわ」
「秘密は秘密です」
「あたしが秘密にすればいい」
 千鶴はついと視線をそらし、正面を向いた。会話を打ち切ったようにも見えるが、一度落ち着いて由香はその横顔を観察した。これは案外、押したらどうにかなるかもしれない。
「聞いてどうするんですか?」
「ちょっかいかける」
「困りましたね。私、ゴシップは趣味じゃないんです」
 千鶴がいるのと反対から声が聞こえたので、由香はなかば呆れながらそちらを見た。案の定、森智里が面白くもなさそうにカメラをいじっている姿があった。
「あんたは結局何者なん?」
「しがない新聞委員の森智里です。あしからず」
 千鶴が乗り出して智里を見る。
「でも、森さんは暴露の現場にいなかったですよね」
 『暴露』という言葉を漏らした千鶴は、しまったと言うように眉をひそめた。
「私の耳は少し特殊でして」
 智里はおでこがくっつくぐらい由香に顔を寄せた。
「実は私、ロバの耳なんです」
「なんのこっちゃ」
 由香は毒気を抜かれた気分で千鶴と向き直った。
「まあ、だれが関わっとるのかは大体分かっとるねん」
 由香は指折り数えた。
「当てたろか。美咲と、満と、それからりんごと夏帆やろ」
「一人だけハズレです」
 智里が言った。
「ほな、美咲はハズレか。あてられてるだけか?珍しいな」
 千鶴が戸惑いを含んだ目で由香を見た。
「ハズレは満です。彼女は無関係ですよ」
「それはウソやろ。あいつ結構落込んでるやん」

++++++

 朗読会に使うホールを見下ろす位置に音響操作室がある。満はマニュアル片手に装置をいじりながら、智里の報告を聞いていた。
「それで、まさか監督役のことなんか話してないでしょうね」
「必要が無いのでしていません。ですが、監督役にはその権利があるんですよ。仲人のように不自由ではないのです」
「うらやましいわ。どうして監督役だけがそんなに自由なのかしらね」
協定の監督役というのは、ルールに従って姫百合協定が運用されるように仲人と協力し、ときにはストッパーとなる役職のことだ。智里が監督役についたのは今年の四月だが、彼女はずいぶんと慣れた様子でしゃべる。
「秘密主義者は良い参謀にはなれない。彼らは秘密をもっているだけで人より多くの情報を持っていると錯覚するからだ」
「誰の言葉?」
「誰でしたっけ?私、その言葉を誰が言ったのかは重要視しないんです。言葉の本質に関わらないので」
「あなたが新聞部じゃなかったら、もっともらしく聞こえるんだけどね」
 智里は小窓をのぞき込んだ。満の位置からも舞台に歩夢がいるのが、遠く見える。座席の側にいるのは、りんごだろうか。
「悔しかったらあなたも全部吐いてしまったらどうですか?正直私には、いまのあなたたちはひどくじれったく見えています」
 智里が機械を操作すると、マイクのスイッチが入った。こちらの声があちらに聞こえるわけではない。あちらの声がこちらに聞こえるだけだ。
「仲人の正体、協定の内容、そもそも誰が協定を結んだのか、それだけでも正直に共有すれば、まだ状況は分かりやすかったと思いませんか?」
「思わないわよ。それだけじゃ消えない問題が、いくらでもある」
仲人が分を超えた行動に出るのを防ぐのは監督役の重要な役目の一つだ。積極的に仲人の干渉をあおるようなことを言うのは、お門違いも甚だしい。
「どっちにしてもよ、仲人が守秘義務を破って干渉するのは、特権を裏切ることになる」
「本当に?」
「私が決めることじゃないのよ。知ってるでしょ」

++++++

 ブツブツと騒がしいノイズに続いて、歩夢の声がホールに響いた。
「あー、あー、ただいまマイクのテスト中。いや、そんなん知ってるっつーのね」
 りんごは座席の間でその声を聞きながら、片手を挙げた。聞こえているというサインだ。歩夢は頷くと、再びマイクを口に当てた。予定と違う行動だ。
「りんご、ごめん。うちのバカ姉が」
 歩夢の声はスピーカー越しに増幅されている。
「でもね、りんご。分からないかもしれないけど、私、怒ってるよ。私が知らないところで、夏帆はともかくお姉に相談するなんて」
「だって、歩夢に損させたくない」
 りんごの地声は遠いステージの上にいる歩夢には届かない。悪質な比喩だ。歩夢は続けた。
「しょうがないか。結局私は、誰のことも自力で手に入れていない」
 違う。りんごは心の中で否定した。歩夢に何も話していないのは、それが無駄な負担だからだ。解決しない、ただの悲劇を歩夢に話せば、彼女にもそれを背負わせることになる。その行動で得する人は誰もいない。損が一方的に増えるだけだ。
 だから、その選択肢は、初めからりんごの中になかった。
 歩夢はステージを降りてりんごの方に歩いてきた。声が届くようになると、こんどは気力が萎えてしまって、りんごは結局歩夢に反論できなかった。
「りんご、協定を結ぼう。私は夏帆の友達で居ることを誓うから、りんごは私に隠し事とかするのやめてよ」
「なんでもかんでも協定にするの、感心しないわね」
 歩夢が声の主を探して顔を上げた。つられて上を見ると、キャットウォークに満が現れた。
「そんなの、満に言われることじゃないし」
「確かに、仲人が言うことじゃないわね」
 歩夢の表情が複雑に変化した。りんごにしてみれば今更の話であるし、満自身はもっと飽き飽きしている流れだろう。興味もなさそうに生徒手帳を見せた。

〇だったらちょうだい

 岸田さやかは、朗読会に参加するグループの間を慌ただしく駆け回っていた。台風についての対応を相談して回っているのだ。ノックをして八ヶ瀬高校のグループが使っている部屋に入ると、メンバーの一人がノートパソコンに向かっていた。
「あなた、牧村美咲さん、だよね」
「はい」
 美咲はやや警戒しながら会釈した。
「あ、警戒しないで。名前はあたしが一方的に覚えるだけだから。もの覚えだけはいいの」
 朗読会に関わってはいるものの、その辺の職員の一人であるさやかが自分の名前を覚えているのは不思議なのだろう。そういう経験は何度もある。さやかはもう一度部屋を眺め回した。
「そうだ、小山夏帆さん、どうしてる?」
「どうって、なにかあったんですか?」
「ほら、あたしたちがいろいろ口出しして、演目を何回も変えさせちゃったでしょ?」
「ああ、まあ、私たちもギリギリで参加しちゃったんで、覚悟はしてました」
 事情をよく飲み込めない美咲が立ち上がるのを見たさやかは、もう一度彼女を座らせた。
「ごめん。そっちは本題じゃないの」
 軽く説明しながら、プリントアウトを手渡す。

++++++

 岸田さやかと名乗った職員は、手早く台風に関連する相談をして最後にもう一度、演目のことで相談があったら声をかけてくれと言った。
 この人、相談する相手を間違えたな、と美咲は思う。台風のことはともかく、演目に関する気配りを伝えるべき相手に伝える技術を、美咲は持たない。
「ところで、これは独り言なんだけど」
 さやかは立ち上がりながら書類をまとめた。
「好きな人は自分の心で選んだほうがいいよ」
 なんの話だろうと思う間もなく扉が開いた。二人がそちらを見ると、無言で夏帆が歩いて来た。さやかの存在に驚いた様子はない。さやかは口を結び、夏帆に背中を見せるのを嫌うような妙な歩き方で扉に回り込んだ。
「ごめんね長居しちゃって。じゃああたし、これで行くから」
 さやかは何やら慌てた様子で部屋を出た。夏帆はそちらを振り返りもしない。椅子に座ってから、やっと口を開いた。
「りんごちゃん、アイシャなんて読んでるから、毒されてるんだ。自分があげたものと帰ってくるものが釣り合わないと気にくわないんだ。私だって、好きでビンボーなわけじゃない」
「それさ、夏帆ちゃんとしては、どうなったら収支が合ったことになるわけ?」
 夏帆が美咲を睨み返し、『何を言っているのかわかりません』と目で訴えた。
「だってさ、夏帆ちゃんが釣り合い取らせようとしてるのは、自分の感情だろ?そんなん、何もないとこから無限に湧いてくるんだから、他人に埋め合わせさせるのは無理なんだよ」
 夏帆はさやかが残した書類を読んでいるような仕草をした。
「それで提案なんだけどさ。私、夏帆ちゃんの友達になるよ。りんごちゃんの代わりに、責任を持って」
「責任って何ですか?人のこと罰ゲームみたいに」
「そのへんはお互い様じゃない?」
 夏帆の使っているノートパソコンが起動する音が、場違いに大きく響いた。
「お気に入りの私をりんごちゃんに差し出せば、それだけ大きな見返りが来ると思った?」
「先輩だってピエロじゃないですか。私もりんごちゃんも先輩のことなんかいらないのに、押し付けあいされてたんだ」
 途切れた語彙を補うように、夏帆は短く笑った。美咲は自分でも意外なほど不快な気分になって、固い声を出した。
「ほんとうは、りんごちゃんじゃなくても、誰でもいいくせに」
岸田さやかがもう一度この部屋に入ってきて、空気を壊してくれればいいのに。それとも、もうそういう段階ではないのだろうか。
「自分が誰かに認められるっていう証明を他人に期待するのは無理だよ」

++++++

 舞台に設けられた階段の脇に、演壇が置かれている。歩夢は手前側に立って、横のりんごをちらりと見た。満は演壇の奥に裁判官のように立っていた。
「まあいいわ。仲人は不介入が原則だもの」満は手帳をもてあそんだ。「それで?協定の証は用意してあるのかしら」
 歩夢は前髪を留めていたゴム紐を解いた。癖のついた房が無秩序にばらけた。りんごは応えなかった。
「あなたは納得してないのね。いいの?今度こそ協定破りができるチャンスじゃない」
「守秘義務はどうしたんですか」
「今回の協定に関しては歩夢は当事者だもの」
 歩夢は流れが分からず無為に前髪をはじいた。満がチラリと歩夢を見た。
「心配しなくて良いわよ。私は当分仲人で居るつもりだし、もしあなたが協定破りをしても、仲人にはならなくていい」
 我慢できなくなって、歩夢は割り込んだ。
「それ、私に聞かせるために言ってる?それとも私をつまはじきにするため?」
「それってどれのこと?酒匂さんの一つ前の協定のこと?守秘義務のこと?協定を破った人は仲人になるってこと?」
「仲人さん、不干渉はどうしたんですか!」
 りんごの言葉で、満は一応大人しくなった。しかし、そうやって感情的になってまで秘密を守る態度は、ますます歩夢をあおるだけだった。
「その、協定破りってさ、これに関係ある?」
 歩夢は智里から預かったマスコットを突き出した。
「りんご、本当は拾ってなかったんでしょ?自分のを夏帆に渡した。なんでそんなことしたの?」
 また前髪が目にかかる。こんなときに限って、いつもの天をつく元気がないと来ている。
「夏帆に訊かれたの。りんごと夏帆、どっちをとるのかって。私、夏帆を放っておけなかった」
「だったら問題ないじゃん。夏帆を選べよ」
「ばかだね、私。なんとかちょろまかして、りんごと夏帆両方選べないかって思ってたけど、りんごはそうじゃなかった」
 髪が目に入る。目が痛い。
「私たち、友達じゃなかったんだ」

++++++

 思いつく言葉もそう多くはなかったので、りんごは正直にそれを言うしかなかった。
「解決できない問題を背負わせるのが友達なら、私たちは友達じゃなくていい」
「可哀想な子が好きって本当?」
 りんごは動揺した。その言葉の意味を考えるより先に、飛躍した思考の不気味な感触に心を堅くした。
「夏帆が可哀想だから付き合ってたって、むかし仲良かった麻子って子もそうだったって。私のことも、夏帆のおまけみたいにくっついてきたから、お情けで付き合ってたの?」
 そんなことはない。歩夢の感じているわけのわからないコンプレックスを打ち消すことが出来るのなら、りんごはもう一度彼女と友達になることを宣言してもいい。しかし、それはひどく不誠実な申し出に感じられて、りんごはその可能性を諦めた。
「酒匂さん、変わってる。好意は不公平を生むと思ってるのに、迷惑は公平にやってくるって思ってる」
 割り込んだのは満だった。

++++++

 歩夢にとってりんごと満が互いのことを語るのは不思議な感覚だった。ここしばらく自分の知らないところでいろいろなことが進んでいるようだが、これはとびきり奇妙なことに思えた。
「自分が小山さんのこと切り捨てたから、同じ理屈で歩夢に甘える権利ないと思ってるんでしょ。歩夢に親切にされたら、同じだけのものを返す自信がないと思ってる」
 満はりんごにするように無遠慮に、歩夢のことを語ることができるだろうか?歩夢は満のことを語ることができるだろうか?
「子供の頃さ、プロフィール帳ってあったでしょう?その中で、友達になる条件みたいなのがあったの覚えてる?」
「私のはなかった」
 歩夢は蚊帳の外を承知で口を挟んだ。私のクラスで回されていたものは、と言うべきだったのかもしれない。しかし、この状況でそこまで訂正する義理はなかった。
「私ね。たくさん書いたわよ。清潔な人、悪い言葉を使わない人、なんでも罰ゲームにしない人、えこひいきをしない人、あと何だったかしら」
 聞きながら、歩夢は考えた。自分はこれまで満の条件を破ったことがあったのだろうか。
「そんなに簡単に、人を嫌いになるの」
 満は不思議そうな表情をしてから、困ったように笑った。
「知らなかった?私、子供なの。でも、特別なことじゃないと思うけどね。どこにあるかわからないスイッチで勝手に人を嫌いになるのと、子供みたいな取扱説明書を押しつけるの、どっちが誠実でどっちがわがままなのかしらね」
 どっちも自分勝手だ。ロボットじゃあるまいし、スイッチ一つで感情が変わるわけがない。言いたいことがあるなら、その都度ちゃんと言葉にするしかないだろう。
「私、踏み外したの?だから満は、不機嫌なの?」
 妙に透る視線が歩夢を射貫いた。
「それが傲慢だって言うのよ。他人の不機嫌が、全部自分のものだなんて思うの、やめたほうがいいわよ」
 胃かむかむかする。詰まってしまった空気のかたまりを吐き出すように、歩夢は言葉を絞り出した。
「私にはくれないってわけ」
 不機嫌という感情ですら、自分には送る価値がないのか。
「ふざけんな。満はお姉がほしいんじゃないの?りんごは友達が欲しいんじゃないの?なんで興味ないようなことばっか言うんだよ」
 自分には奪うことも与えることも出来ないのか。
「だったちょうだい!最初から、全部いらないくせに!」

◯中途半端な自暴自棄

「見なよこれ」
 歩夢はスプーンで食堂のカレーライスをつついた。
「小盛りって注文したらさ、ライスだけ小盛りになんのよ。それで余ったスペース全部カレーで埋めようとするから、冗談みたいにカレーが余るの」
「だったらカレーも少なくするように頼めば」
「……ごもっともで」
 歩夢は月見そばをつつくりんごを見た。
「正論だけど、いまりんごにだけは言われたくない気分」
 歩夢の意図は伝わったらしく、りんごはやや気まずそうに手を止めた。それから、観念したようにしゃべり始めた。
「あの人さ、本気で歩夢をつっぱねたりはしてないよ。私をかばった」
「かばった?」
 りんごは頷いた。言われてみれば、こうやってりんごと自分の関係を多少なりとも分析する気分になったのは、満の言葉があったからだ。
「中途半端な自暴自棄。私のこと理解したようなこと言ってさ、ぎりぎりのとこで恥ずかしがって、悪ぶったんだよあの人」
 長机のところどころに置かれた紙ナプキンの置き場がある。りんごは手近な一つに手を伸ばした。
「三原先輩の言ってること、全部的外れなわけじゃない」
りんごは紙ナプキンの束をまるごとひっくり返した。そうすると短くなっている方がこちらを向く。それから一枚を取ると箸を置いて、レンゲに持ち替えた。
「夏帆のことずっと嫌いで応えないようにしてきたというか、応えられなかったのに、歩夢と仲良くなるの、違うって思ってたのかも」
「考えすぎだよ。そんなの当たり前……」
 言いかけて、歩夢は考え直した。
「……と、思って欲しくはない、かも」
「でしょ?」
要するにりんごは考えすぎるのだ。夏帆の収支も、歩夢の収支も。そして自分自身の収支さえ、常に取り過ぎることを恐れている。
「でも、りんごは私や夏帆に対して誠実でいたかったんでしょ?それは、りんごが夏帆のこと、好きだっていう証明にはならないの?」
「良心を人質に取られてることと、好きだってことは、違うと思う」
 その場ではそれ以上突き詰める気にもなれず、歩夢は黙って食事を続けた。

++++++

 朝からりんごには会っていない。りんご自身避けているというのは充分考えられるし、今日は周囲もなんだかソワソワしている。仕事に一区切りがつくと、夏帆の前に千鶴が現れた。
「今日は由香先輩と一緒じゃないんですか?」
「鴨川さんなら、酒匂さんと買い出しに行きました。人手もないのであなたに頼みたい用事があります」
りんごには由香があてがわれ、夏帆には千鶴があてがわれたというわけだ。ひねくれた思いを抱きながらも、自分がうち捨てられては居なかったことに、夏帆は安心した。
「今から私が朗読会の閉会の口上をするので、そこで聞いていてください」
「え?」
 ぽかんとした口と頭を抱える夏帆を置き去りにして、千鶴は本当に口上の練習を始めた。五分ほどでそれを終えた千鶴は、夏帆を置いてあっさり別の仕事に戻ろうとした。
「他に何かないんですか?」
「何かとは?」
「そんなの、言えるわけないです。催促してるみたいな」
 千鶴は心底不思議そうな顔をした。
「私、根掘り葉掘り聞き出すようなことをするのは失礼だと思って、触れないようにしていたのですが」
「いや……」
夏帆は勢い込んで口を開いてから、あわてて言いたいことを整理しようとした。それに成功したことはこれまでほとんどなかったが。
「取り調べみたいな言い方をする人は怖いです。でも、ほっとかれるのって怖いんです。いつ爆発するか分からない爆弾みたいじゃないですか?」
「もう爆発したのでは?」
 夏帆は脱力した。また伝わらなかったという諦めが心を満たす。
「ほっとかれるのって、弁解するチャンスをもらえないってことじゃないですか?やり直す方法も教えてもらえないってことじゃないですか?」
千鶴は眉をひそめて、世界の秘密をそっと教えるように、夏帆に顔を寄せた。
「理解されたい人間なんて、いませんよ」

〇埋め合わせてあげる

りんごは納得できない気持ちで薬局の中を歩いていた。前を歩く由香はメモを片手に、文房具などを買い物かごに放り込んでいる。手伝いの名目で後輩を連れ出しておいて、荷物持ちすらさせないのはいっそ無神経だ。
由香は無造作にメモをりんごに渡すと、ふらりと棚を覗いていく。りんごはかごの中身とメモを見比べて訝しんだ。もう全部そろっている。
「あんた、結局花火見れたんか?金柄祭りの日」
「見ませんでした。別に興味ありませんでしたし」
「あたしもろくに見てへんねん。あのな、良かったら、今夜一緒にやらへんか?」
 由香が足を止めたので、りんごは黙ってそれにならった。視線の先に袋入りの手持ち花火が陳列されている。
「深夜から台風やろ?あたし近くの親戚の家に泊ることになってん。そんで、他のメンバーも泊ったらどうかって、提案された」
 りんごはやや警戒した。由香は暴露の場面に居合わせていないはずだが、りんごは彼女が自分に気を遣っているのを感じた。そういうお節介を焼いている人間の、独特の間を感じ取っていた。
「誰が来るんですか?」
「とりあえず、美咲と歩夢と満」
「夏帆はつまはじきですか?」
千鶴を口説き落とせなかったから、次は自分ということだろうか?お節介焼かれたくらいで『仲良し』になるのはごめんだ。
「千鶴と森智里も来ないよ。とにかく、電車組に先に声掛けとるだけ」
 しかし、この約束はあっさり頓挫することになった。はじめに現れた予兆は音だった。表の道路を行き交う自動車の音にしては妙に大きな音が響き、少ししてりんごはそれが雨音であることに気付いた。
「うそ、もう降っとる?」
 由香が握りしめたビニール袋の中には、すでに花火が入ってしまっている。

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