姫百合協定つまはじき 6章

〇ひとりごと りんごちゃんディナー

 家に帰ると、夕食はお子様ランチだった。オムライス、ウインナー、コーンスープ、カレイのバターソテー。全部私の子供の頃からの好物だ。
「今日、なんかお祝い?」
「何の話?」
 母はいつもの調子を崩さずに準備を続けた。だから私はそれ以上追求することはしないで、母を手伝って食器を並べた。母が理由を説明しないことに決めたのなら、そういうことなのだ。
 湯気を立てていた皿達も配膳が終わる頃にはちょうど良い温度になっていた。ウインナーをかじると、母親が「塩加減どう?」と聞いてきた。私はいつも通りの声を出して「美味しいよ、ありがとう」と答えた。
小学生の頃の遠足で、夏帆がカニのウインナーをくれた。彼女は『りんごちゃん、ウインナー好きだから』と言った。実際ウインナーは大好物で、夏帆の行為は善意からくるもので、それなのにその時の私は、とんでもなく悲しい気持ちになった。

◯嫌いな理由が要りますか

 森智里がいつもの調子で「お久しぶりです」と声をかけて来たとき、適切な返事の仕方を知っている者は一人も居なかった。智里がここに居ることが不思議なようにも感じるし、これまでずっとそこに居たようにも感じる。皆もそう感じているのだろうかと思いながら、牧村歩夢は確かめる気にはなれなかった。
「今日は夏帆さんに悪いお知らせがあります」
 名指しにされて慌てる小山夏帆を尻目に、智里は手に持っていたメモを一同に見せた。
「なんでも、以前から実施されているアンケートで朗読の要望が多かった本があり、私たちのグループに演じて欲しいのだとか」
 歩夢は満と顔を見合わせた。智里のメモには、『アイシャのお城』と絵本のタイトルらしき文字列が書かれている。
「そんなこと言われたってね。こんな直前で演目を変えられるわけないでしょ」
「直前だからですよ」
 湊千鶴が興味なさそうに作業を続けながら口を挟んだ。
「もともと小山さんは練習を始めたばかりじゃないですか。完成度だってお世辞にも……」
 千鶴の口を鴨川由香が塞いだ。
「ええんちゃう。どうせ、夏帆はエリオット以外やったらなんでも一緒なんやろ?要望が多いってことはさ、ほら」
 言葉を濁した由香の隣で、千鶴が口に当てられていた手をひょいとよけた。
「要望が多いということは、それだけお客さんの反応も良いということです。もらえますよ、拍手」
 ずいぶんな言いようだな、と思いながら歩夢が夏帆を見ると、案の定というか、不満げな顔をしていた。
「ぜったい嫌です」
「なんで」
「嫌いなことに理由がいりますか?」
 歩夢はつい習慣で酒匂りんごに助けを求めようとした。顔を上げようとしたりんごは、抱えていた印刷物の束を取り落とした。
「りんご?」
「りんごちゃん。私、嫌だからね」
 夏帆の声は、まるでりんごを責めれば問題が解決されると信じているように響いた。書類をかき集めていたりんごの手が止まった。その口が開くのを、歩夢は思わず止めそうになった。なんでだ?りんごはなにを言おうとしてるんだ?自分はなにを止めようとしているんだ?
 瞬間の思考が固まるよりも前に、牧村美咲の言葉がそれを中断させた。
「わたしもやめた方が良いと思うな」
 一同が美咲を見た。最初に口を開いたのは由香だった。
「なんやねん二人して。なんかヘンな噂でもあんのか」
「私も理由はないよ。ただやめた方がいいと思っただけ」
 由香は狐につままれたような顔になり、しかしあっさり矛を収めた。歩夢はりんごに駆け寄り、書類集めを手伝った。りんごは小さく、「ごめん」とつぶやいた。

++++++

 美咲は棚の間を歩き、りんごを見つけた。
「はい。これ、長野土産」
 そう言って突きつけてやった林檎入りのパウンドケーキを、りんごは不思議そうに見た。
「調子良いんだから。私以外の女にも、こういうの渡してるんでしょう?」
「まさか、君だけさ」
 りんごの目頭がおどけたようにすぼまる。
「それで?ちゃんとみんなに平等にあげたんですか?こんなコソコソ渡すとあやしいですよ」
「だから、りんごちゃんにだけだって」
 目の前で梱包のセロハンテープに爪をかけていたりんごが、ますます不思議そうな顔になった。
「私がりんごだから、林檎のお菓子ですか?センス悪いですよ」
「そういうことは夏帆ちゃんに言って欲しいな」
 そして、美咲は種明かしをした。長野に出かける前に夏帆から指示を受け、りんごのために土産を買うことにしたこと。その選定についても、夏帆の助言通りにしたこと。
「私の意思じゃなくてがっかりした?」
「訊いても無いことをバラしたことにドン引きしてます」
「そうなの?でも、賄賂の送り主がだれか分からないと困るでしょ?」
 りんごは呆れ顔だ。少し考えて、りんごは訊いた。
「その取引って、さっきのことと関係あります?『アイシャ』の件」
「ああ、あれ?」
 美咲は言葉を整理する間を取ってから言った。
「違うよ。でもさ、なんか可哀想じゃん。みんなで責め立てて」
 りんごは外箱の蓋を開けて、小分けの袋をしげしげと眺めた。
「先輩はエリオット派だったんですね」
「『派』って、ほかにどんな派閥があるのさ」
 りんごは意外そうな顔をした。
「夏帆から聞いたんだと思ってましたけど?」
「昔話はちょっと聞いたよ。例のカエルの絵本が好きだってだけで馬鹿にするような子が居たって」
 りんごは少し真剣な顔になり、問い詰めるような声を出した。
「その子の名前、聞きました?」
「なんていったっけ?私が知ってる人じゃないよね?」
「そういうわけじゃないです」
 りんごは蓋を閉め直し、包装紙を無為に四つ折りにした。
「麻子っていうんです。その子」

〇どっちが好き

 事務仕事のために割り当てられた部屋には、満の他に歩夢と千鶴が残っていた。ひときわ早い千鶴のタイピング音がやんだかと思うと、ぽつりとした声が聞こえた。
「もしかして、酒匂さんと小山って豊島小ですか?」
「そうだったかも」
 答えたのは歩夢だった。それがどうかしたの?と目顔で訊いている。
「私も豊島小出身なんですけど、低学年の頃、エリオットの絵本は順番待ちが出るくらい人気だったんです。それと同じくらい人気の絵本がもう一つあって、それが『アイシャのお城』でした」
 意外なところから答え合わせがはじまり、満も思わず手を止めた。
「私のクラスではそんなに大きな話題にはなりませんでしたけど、人によってはどっちが好きかで結構いがみ合いもあったと聞きます」
「絵本が好きな同士くらい仲良くすればいいのに」
「私に言わないでくださいよ」
 歩夢は両手のひらを見せて降参のポーズをとり、苦笑いした。
「まあ、本質以上に意固地になっているような子供が多かったのは事実でしょうね。そんな事情を知ってか知らずか、図書委員主催でどちらが人気かの投票がありました」
「どっちが人気だったんですか?」
「確か、『エリオット』の方だったと思いますけど。まあ、それはあまり重要ではないかもしれません」

++++++

 美咲とりんごは図書館を出て、休憩コーナーまで歩いて来た。袋詰めになっているとはいえ、飲食物を書庫に持ち込んでいるのは気持ちが悪い、とりんごに言われた。
「それで、りんごちゃんはどっちが好きだったの?」
「そんなことが気になるんですか?」
 『カエルのエリオット』と『アイシャのお城』の二つの絵本を巡るいさかい。りんごはその話を大げさに受け取られるのを嫌っているようだが、先ほどの夏帆との様子を見せられてそれを気にしないでいるというのも無理な話だ。
「そうじゃなきゃ、オチがない」
「分かったことにしたいだけのくせに」
 それの何が悪いのか。美咲は内心開き直って、りんごの次の言葉を待った。
「じゃあ聞きますけど、先輩は『エリオット』と『アイシャ』のどっちが好きなんですか」
 美咲は言葉に詰まった。りんごは『ほらね』という顔をした後、悔しそうに顔を背けた。だとすると、りんごが選びたかったのは、やっぱり『アイシャ』だったのではないかと、美咲は思った。
「読ませてよ。私きっと、『アイシャ』好きだと思う」
 りんごは美咲の目を見て、「嘘つき」と言った。目を見て繰り返すことでより深く美咲を傷つけることができるのだと信じているみたいに、もう一度はっきり言った。
「嘘つき」

++++++

 職員に報告をする用事があるとかで、歩夢が部屋を出た。二人きりになると、千鶴の態度が少し変わったのを、満は感じた。
「今日の件、酒匂さんと小山さんの協定に、関係があるんですか?」
 満は舌を出した。
「仲人には守秘義務と不干渉の原則がありますから」
 実際のところは、満には分からない。協定を結んだはずの夏帆がそれを反故にするのではないかとひやひやした局面はあったが、それだって本来仲人が気にするべきことではないのだ。けれど、
「湊こそ、酒匂さんに事情を聞いてるんじゃないの?あの子に仲人のこと教えたの、あなたなんでしょう?」
「私は普段から不干渉の原則を守っているので」
 心の中で苦笑いし、満は作業に戻ろうとした。千鶴ならそこで会話を打ち切ると思ったのだが、意外にもそれは続いた。
「満は、協定というのはなんだと思いますか?」
「姫百合協定についてということなら、言ってしまえば交換条件よね。約束。あれをする代わりにそれをやってくれという強制」
「私は、線引きだと思いました」
 仲人として知り合った人間とは別に、元から知り合いだった千鶴とこうして仲人としての会話をするのは不思議な感じだった。催眠術かなにかにかかったまま言ってはいけないことを言っているような錯覚に陥る。
「線引き?」
「小さな借りで延々と見返りを引き出されないようにするための制約、というか」
 千鶴って、そういうことを考えているのか。多少不思議な思いで、満はその言葉を咀嚼した。

++++++

 用事を済ませた後、歩夢は森智里に出会った。『アイシャのお城』の絵本を読んでみたかったのだが、あるはずの場所にそれがなくて首をひねっていたところにふらりと現れたのだ。
「誰か来るような予感はしていましたが、あなたでしたか」
 何やら意味深な言葉に、からくりでもあるのかと思ったが、智里はあっさりそれを否定した。
「本はきっと、誰かが閲覧中なんでしょう。でも、あらすじなら分かりますよ」
「ずいぶん都合がいい」
 などと、おどけるのもほどほどに聞いてみた絵本のあらすじは次のようなものだ。
 主人公であるお姫様のアイシャは、魔術師が人間の善意の貸し借りを記録した帳簿を見つける。姫として生きてきた人生には大きな貸しがあると感じたアイシャは、それを返すための旅を始める。その中でいろいろな形の人間関係、貸し借りのありかたに触れたアイシャは、彼女なりの結論を出す。
 ふむふむと頷きながら聞いてみたものの、智里の記憶では曖昧な部分もあり、結局のところはよく分からなかった。もともと、具体的な何かを期待していた訳ではない。
「そういえば、私も本来の持ち主に返せていないものがありましてね。ここの落とし物として届けても良いんですが」
 言いながら、智里は無造作にポケットから何かを取り出した。それは見覚えのあるカエルのマスコットだった。
「嘘」
「嘘と言うのは、口からでまかせ言うものです。ポケットから出すものではありません」
 歩夢は問題のマスコットのことを頭の中で数えた。一つは美咲のものだ。これは結局夏帆のもとには渡らず美咲がまだ持っているはずだ。もう一つは夏帆のものだ。これは一度なくなったが、りんごが見つけて夏帆に渡した。最後の一つはりんごのもので、これはずっとりんごが持っているはずだ。
「智里さん。これ、どこで拾ったの?」
「クスノキの下です」
「どこの!」
 智里はなぜか面倒くさそうな顔になり、それでも答えた。
「金柄神社のクスノキですよ。お祭りの日に、落ちていたんです」

〇一つでも信じさせてよ

 協定以来だ。満は心の中でつぶやいた。東屋の屋根の下では、りんごがひとりでパウンドケーキを食べている。すでに十個以上の袋が机の上に転がっている。
「意外ね」
 満が言う間にもりんごは新しい小袋に手を付けていた。ずいぶん荒んだ目をしている。
「あなたはそういうの、人と分けるタイプだと思ってたけど」
「欲しいんですか」
「そんなこと言ってないわよ」
 などと言いながらも、いたずら心が湧いて一つを手に取ってみる。包装を開いたタイミングを見計らったように、りんごがぽつりと言葉を放った。
「プレゼントを人に横流しする趣味はないので」
 そういうわけか。といって今更返却するつもりもなく、満はパウンドケーキを無心に咀嚼した。
「知ってる?協定を破った人って、仲人になるのよ」
「ペナルティはないって言ったじゃないですか」
「そういう例もあるってだけよ。罪滅ぼしって言うの?そういう気持ちでやるらしいわよ」
 りんごは林檎ジュースのパックに刺さったストローをいじった。やけくそのような選択がいっそ気まずい。
「どうしてそんな話を?」
「だって、小山さんに復讐するつもりなんでしょ?だったら先に説明しておいた方がフェアかなって」
「復讐?」
 りんごはストローに口を付けた。満は東屋の柱に体重を預けた。
「アイシャ派だった麻子って子を絶交した復讐」
 ずぞぞ、と間の抜けた音がした。りんごは呆けたような顔で、紙パックの四隅を律儀に開いた。
「違いますよ。麻子を裏切ったのは私です」
「あなたは『エリオット』に投票した?」
 りんごは空になった小袋を器用にねじり、リボンのように結んだ。
「違う側に投票したら裏切ったことになると、先輩は思いますか」
「ゴメン。そういうつもりで言ったんじゃないわ」
「そういうつもりだった人もいます」
 リボンはどんどん増えていく。
「今でも時々思うんです。私あの時『アイシャ』に入れとけばよかったって。麻子と二人で夏帆に絶交されて……夏帆じゃなくて、麻子だったら」
 りんごはついに紙箱にまで手を伸ばし、ふちをめくって分解していった。
「本当は夏帆と私の約束、とっくに終わってるんです。夏祭りの日、私はマスコットをなくしちゃったんで」
 その日マスコットをなくしたのは、なくすはずだったのは、夏帆だ。
 満は唐突に理解した。りんごは夏帆に復讐するために結果として協定破りをしようとしているわけではない。協定を破ることで夏帆の信頼を裏切ること自体が、りんごの目的なのだ。協定は当人同士の名誉によってのみ成り立つ。
「その麻子っていう子、今どうしてるの?」
「中学で学区がわかれました」
 だったらどっちにしろ続かなかったのではないか、という話はどちらからもしなかった。
「みさは」
 満は片手で触れた柱の感触を意識した。どうか倒れないで、私を支えていて。
「美咲は、あなたのことを嫌わないと思う。あなたが自分に失望していたとしても」
 りんごはゴミをまとめたビニール袋の口を縛った。満が見ている間にも、結び目はますます強く引き絞られる。
「先輩は、なにか協定を破ったんですか?もしかして、それって、美咲先輩に関係のあること?」
 池の水面に石を投げ込んだみたいに、ある光景が頭に浮かんだ。小学生の頃、クラスで流行したプロフィール帳。内容がすかすかの、美咲のプロフィール。いまでも満が覚えている項目はたった一つだけ、友達の条件の項目だ。
 『借りた物を壊さない人』
 それは協定でもなければ約束でもない。満個人に向けられた言葉ですらない。だから満が仲人になった理由とは全く関係がないのだ。満は結局、事実だけを話した。
「そういう例もあるだけって言ったでしょ。私は普通に先代から継いだの」

++++++

 ゴミ箱を探しているのか、りんごの視線が動いた。そうすると少し間合いが楽になったように感じる。
「先輩、神様とか、運命とか、信じるタイプですか?」
「仲人は牧師じゃないわよ」
 いつの間にかニヤニヤとした顔に切り替わったりんごが上体を傾け、おもしろい相談をするような姿勢になった。
「私、結構自分は運が良い方だって思ってるんです。くじ運とか、トラブルを避ける運とか」
「ええ」
 一応はりんごのペースに乗ってやり、先を促す。
「でも、ツキっていうのは私一人の中で回ってるわけじゃない。いろんな人にツキが回るように世の中出来てるので、ここぞというときに運を使うにはコツが要るんです」
 りんごからそういう話を聞くのははじめてだったし、このタイミングでそんな話をするということは、それなりの意味があってのことだろう。そう思って満の方からも顔を寄せたが、りんごは奇妙な笑みで満の後ろに視線を送った。その先を追うと、美咲が歩いてくるのが見えた。
「残念ですね。もう全部食べちゃいましたよ」
「いらないよ」
 そのやりとりで、満はりんごの意図を理解した。りんごは、関係のない話がしたかったのだ。美咲に対して、あなたや夏帆と関係のある話なんてしてませんでしたよ、というアピールをしていたのだ。
美咲は空いていた椅子に座り、少し迷った様子を見せてから、それでも遠慮無く切り込んだ。
「りんごちゃん、いっそ夏帆ちゃんと代わってみる気はない?好きなんでしょ?『アイシャ』」
「伝言だって露骨すぎ。五点減点です」
 りんごは一度息をつき、それからだんだん眉間の皺を深めた。
「ねえ先輩、私、先輩に選んで欲しくなんてないです」
 りんごはビニール袋を突き出した。
「先輩はこれと同じです。私の機嫌を取るための貢ぎ物。私の好きなもの、夏帆が決めていいはずないのに」
 美咲は押しつけられた袋の中身を見て、「ゴミじゃん」と言った。美咲なりに陽気に返そうとしたのだろうが、りんごは否定しなかった。
「だから、先輩、誰のことも嫌いになれないんなら、夏帆をもらってください」
 美咲も満も返事をしないことが分かると、やがてりんごの熱も冷め、彼女は鉛のように椅子に沈み込んだ。美咲は多少ショックを受けたような表情で、ぽつりと言った。
「未来のさ、自分のことなんて、なにも約束できないよ」

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